エディション2
石と永遠に続く愛の物語

やぁ、Alex Henry

君がいたバンド(解散したの?)については良く知らないんだけど、君のソロ音源は大好きだよ。ノンストップで「Summertime Departures」を聴いてる。(というか観てるって書くべきかな。だってYouTubeのやつだから)とにかく、早い話が、この曲の意味について、すごく興味があるってこと。どうもありがとう、Alex Henry。

-Allan G., Bolton, UK.

僕がのちに「Summertime Departures」の歌詞となる言葉を書き始めたのは、眩い街タンジェに滞在していた時だった。深く混乱したまま、漂流するように辿り着いたんだ。その混乱の中心は、父親が亡くなったことにあった。父が亡くなってから、何も感じない生き物のように生きてきて、ずっと自分の心と正直に向き合うのを避けていたけれど、心に響く空虚感が、もう無視できないところまできていたんだ。

息子として、父親の死というのは、無垢や幻想の終わりを意味する。突然、時間が執拗に追ってくる逃れられない敵となり、過去に体験した楽しい瞬間の公正な取り分を求め、また、誠実な影として日々、じわじわと忍び寄ってくるんだ。そして、人は穏やかな日々への浅い約束のために何でも捧げようとする…とはいえ、僕は無常という概念を受け入れてきたから、人の死にも素晴らしい平穏があるはずだと信じていた…僕は間違っていたよ。

息子として、父親の死というのは、無垢や幻想の終わりを意味する。

実際、父の死はまるで自分の大半を失ったかのようだった。突然、自分は誰なのか、信仰の意味を含まない真実と向き合うとはどういうことなのか、考えるようになったんだ。たとえ、それが前に進むための捉えどころのない感覚だったとしてもね。正直になること、人はいつか死ぬという現実と向き合うことには、深い明快さがある。自分が抱く感情、それが否定の心でも、無だろうとも、あらゆるナンセンスで自分を納得させ、そこに目的を見つけられるだろうと思っていた。けど再び、僕は間違っていたんだ。

僕は沈黙し、孤立することで、その全てに対処しようとした。父との思い出や記憶は、様々な問いかけや憤りを感じたと同時に、僕に付きまとい、僕を悩ませた。何度も夢に現れては、実際にはしたことない会話をしたんだ。ついに頭がおかしくなったかと思った。正気じゃないってね。それが悲しみや、罪の意識、怒りなのかは分からない。何か漠然としたものだったんだ。父は生涯、強い信仰を持って生き、最後まで治ると信じて疑わなかった。自分の癌はもう現代の医学で治せるものではないと知ってからも、最後の吐息まで、父は歌い、讃えたんだ。そんな奇跡的な完治を信じて疑わなかったからこそ、これまで明かさなかった話や、心情について、遺書のようなものを書こうとも思っていなかった…その深い確信に、僕はものすごく困惑したんだ。父が亡くなったあとは特にね。でも、その気持ちと直面することを拒否した…タンジェへ向かうまで…そこでは、直面しなければいけないと分かっていたんだ。

人を惹きつける魅力と人を困惑させる側面を同時に持つ場所で一人の時間を過ごしながら、小さなゲストハウスの屋上テラスから、何日間もヨーロッパとアフリカの間に広がる海を眺めた。より良い生活を夢見て乗り込むフェリーの数分の乗車時間でさえ早く埋めたいと強く望む人たち。彼らはみんな、希望に満ちた腕を広げて美しく立ち、まるで毎回祈るごとにゆっくりと消えていくように感じる新しい可能性の岸に手を伸ばそうとしていた。子供たちは古くて、細い通りでサッカーをして遊び、きっとその通りは彼らのお父さんやおじいちゃんが特別な人生を想像した場所であり、無垢な青年の頃に永遠の愛を信じた場所だろう。カスバの公共の噴水から水を汲むあいだ、僕を穏やかに見返して微笑む女性もいた。詩を読んでいる年配の人たちもいれば、通りすがりの人間にとっては普通のことのように見える不思議を賛美する人たちもいた。それは独特な矛盾の世界であり、混乱した僕の心の状態を映し出していたんだ。

自分にとって最も心が痛む悲しみと、積まれた石のように耐え続ける愛を信じる決断のあいだには、永遠があるんだって伝える僕なりの方法なんだと分かったよ。

彼らが”今”という概念と、どう繋がっているかを見たことで、僕はもはや逃れられない視点を得た。それは、嘆き、生、死や自分自身を遥かに超えたものだった。だから、僕は書き始めたんだ。これほどまでに正直に、脆くなれるとは思っていなかったよ。これほどまでに自分の経験をさらけ出し、遂には、父親を手放し、自由にしてあげる方法を見つけられるとは思っていなかった。神聖な墓に石を積み上げるイメージで全て筋が通ったんだ…それが始まりだった。それが不思議な、けれど意味深い始まりであり、究極的には曲へと導いたんだ。考えとしては、人生で出会えていたであろう礎(人)を証明する”記録者”について…”共通の”石は、いかなる貴重な装飾品をも超越する。

じゃあ、最終的に僕らに残されるものは何だろうか。時が過ぎるとき、愛する人たちがいなくなるとき、大事な人たちの記憶と一緒に約束が消えるとき、名前が会話に出てこなくなるとき、大切にしていた人の一番の思い出がゆっくりと誰か違う人の心に移っていくとき、花々の鮮やかな色が消え失せるとき、時間がその誓いを守り、僕らに追いつくとき、夢や希望の輝きが枯れ、浜辺に立って全てを捨てる覚悟ができるのを待っている旅人たちや、時間という概念の前に純真さを失う子どもたちや、水を汲みながら滴ごとに衰えていく女性たち、視界からいなくなっていく老人たちのように顔のない魂になるとき、やがて見えなくなる素晴らしい命のように…風の中で方向を見失うとき…死に正しいも間違いもないとき…

そして、だからこそ今、僕自身の矛盾と脆さをもって正直に見てみて、「Summertime Departures」は、人が生涯を通して強い信仰を持とうと、または時間の経過と共にそれを忘れようとも、自分にとって最も心が痛む悲しみと、積まれた石のように耐え続ける愛を信じる決断のあいだには、永遠があるんだって伝える僕なりの方法なんだと分かったよ。

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