The Power of the Heart
楽曲について
子供の頃、父のレコードコレクションの主要セクションに、『Transformer』という奇妙なサウンドのLPを見つけたときから、ルー・リードのファンなんだ。僕はアートワークから楽曲の背景ストーリーまで、そのレコードに魅了された。モントリオールのフランス語圏で育った僕にとって、英語の歌詞は謎めいた音の欠片のように聴こえ、当時はほとんど理解していなかったけど、ルーの痛切な歌声が、まるで光り輝く灯火のように僕を導いたんだ。恐れを知らない、挑戦的なトーンを感じ、クリエイティブな世界の自由と品位を感じながらも、本当の意味で僕を捉えたのは、彼の音楽から滲み出る、どこか悲しげな雰囲気だった。初めて聴いた時に感動した彼の音表現の中には、明るく輝く目に見えない何か、説明できない、はっきりと定義することもできないくらいの何かがあって、それは何となく、深い闇に支配されきっていない陰った悲しみのようなもの。そして、その後ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを知り、彼の広範囲にわたる作品を知り…ニューヨーク、ウォーホル、バスキア、ブランカ、パティ・スミス、ソニックユース、スワンズなど、僕の幼少時の想像力とヴィジョンを形づけた多くを発見した。想像力、それがなければ自分のいた貧しく、経済的に恵まれない現実の中だけで育っていっただろう。
もしも、彼の『Metal Machine Music』が僕の作品作りのコンセプトや美学へのこだわりに大きな影響を及ばしたのだとしたら、コントロールしないと落ち着かない自分自身から、概念的な構造を手放すことができたのは、彼の楽曲「The Power of the Heart」を聴いて、濁りのない純粋さと、素晴らしい解放を感じたからだ。その時から、何からも縛られず、そのままの感覚を歓迎することと、他の人たちが僕の招待を受けるように合理的な範囲内で交流することの違いを見通すことができるようになった。
それはまるで、最も才能に溢れたイリュージョニストが、生涯を通して多くの人を巧妙に騙しつづけた壮大なトリックのあと、突然、明るい光の下へと踏み出したかのようだった。まるで、確かめることのできない、自分のものにできない、理解することもできないものに対する、抑えきれない人間の執着心から、宝物を守るために着ていたユニフォームを脱ぎ捨て、初めて本来の姿で人前に現れたかのように。本当の美しさはずっとそこにあったけれど、人々の熱視線から逃れるように隠されてきた。ある人の大胆な足元に、その美を横たわらせるために。初めから、本来の彼を見ていた人、彼の陰りや光を恐れず、よく作り込まれたオーラにも困惑しなかった人のために。その人は彼女自身の道を教え導いた。その思慮深い精神が、彼の中の生涯続く苦しみに気づき、家へ導く旅路を見つけたんだ…少なくとも、僕はそんな風に、この曲を理解したい。
「The Power of the Heart」のように誠実なモニュメントを自分のものにするために、寒々とした不穏な自分の心の内を航海しようと決意するまで数年かかった。偽りが蔓延る時代において、自己を受け入れることは、本来の自分を見つけることであり、また自己保存的な現実逃避から一度、自由になると、過去の面影の中でも進むことができ、個人として、新たな始まりとして、ありのままでいることへと導く。本当の自分を見られることへの苦痛から解放されたことが、この楽曲をルー・リードの真似をして歌うプレッシャーを感じずに済んだ理由であり、彼の親密な意図を見習う重荷を自らに課したりせずに済んだ理由だ。もしも、この楽曲のカバーが、ルー・リードとローリー・アンダーソンの愛と各々の創作表現へのオマージュであるならば、その体験を通して自分を解放していくとき、既に存在する概念を越えて成長することができる。その視点を得たとき、この曲の解釈を見直したり修正するプロセスから、自分の直感的な流れと身を委ねたことによる完全な解放の結果であると思えるようになった。ノイズがサウンドになり、楽曲のアレンジが精神の高揚へと発展していき、手に入れられないもの、測れないもの、確かにできないものへの祝福となった。分かち合われ、自分の手から離れて初めて経験できる、際限のない無限に形を変えていくアセンション(昇天)。それが、永遠が持つ真の本質であり、心が持つ力なのだと思う。
熟考における自由。受容における慈悲。形を変えて実現されていくこと。