人生の展開を目撃する

見る vs 観る

今夜、リヤドはとても静か。それって僕にとっては変なんだ。僕の家はいつだって音楽や熱気を帯びた会話や喜ばしい驚きや、たくさんの人で溢れているからね。でも、今夜はみんな外に出てる。というのも2日間の短い旅で僕らを訪ねてくれた大切な友人がいるから、その人にタンジェの街を案内しているんだ。僕は残念ながら具合が悪くて、自宅待機。食中毒が体の疲労もあって、だいぶキツめに襲ってきたんだ。タチの悪いサイクルだよ。免疫システムが弱っちゃったから、普通の人ならなんでもないバクテリアでも僕には影響しちゃうみたい。僕にとって、何の変哲もないものなんて、もうないって感じだよね。オーバーなくらい気をつけないと。今回の感染も外に出たらいつも以上に気をつけないといけないっていうリマインダーだよ。その状況がどんなにハイクラスでもカジュアルでもね。そこにサインも警告も何もないからさ。まるで、目に見えない敵がいて、僕がガードを緩くするのを待っているみたいだ。それを避ける方法はどこにもない。
リヤド
というのも実際のところ、問題は別のところにあって、過度のストレス、長時間労働、高負担なエネルギーを要する激しい時期を過ごしたあと、まだ体が調子を取り戻せていないことで、僕のシステムがローバッテリーモードなままなんだよ。そして、かなりスローダウンしなければ、いづれ完全に燃料が尽きてしまうだろう。そうなったら、周りに嵐を巻き起こすことは避けられない。すごくイライラするよ。スポーツで例えるなら、僕はベンチに座っているような選手じゃないからね。ゴーゴーゴー、もっと、もっと!ってタイプ。しかも、ずっと。だから、僕にとっては変な状況なんだ。全然、自分のキャラじゃない。少なくとも、友人たちからしてみれば、僕の周りにいるのも、いつもより静かだって感じだろうね。一度に複数の話題に触れる僕の会話についてこなくて良いから。それが、面白いのと同じくらい、この会話に参加するのは疲れるだろうからさ…!楽しくない一方で、人間関係としては効率的だと思う。それが僕の周りにいる人たちにとっての一筋の光であることは間違いないね!

僕としては、そういう状況を通して、今でも進むべき道を学ぼうとしてる。逃げられない状況の中に独り囚われていると感じたり、自分だけの風船の中で生きてると感じるのは憂鬱になり得るけど、それを受け入れないといけないんだ。精神的、感情的自由を開くことのできる、それが唯一の鍵だよ。僕はより思慮深く、戦略的なタイプなんだけど、逃げ道を見つけることに関しては、ブルドーザータイプなんだ。前までは”鍵”なんて必要なかった。だから、今はとても、ぎこちなくて、矛盾してる感じだけど、でもそれが本当なんだ。自分を大きく調整しないといけないんだよね。疲れすぎて何もできないとか、続ける前に休みが必要だ、なんてこれまで言ったことすらなかったと思う。もちろん、良い面、悪い面、あると思うよ。だって、誰も病気になったり、疲労困憊したりなんてしたくないしね。自分の目的地に向かう別の道を探さないといけないんだ。それは、遠回りのように見えるかもしれない一方で(正直、一生のように感じるよ)自分のいる環境に新しい視点も与えてくれた。それについては、これまでのジャーナルで少し書いたと思う。1時間に300マイルのスピードで走ってたら、自分の周りで何が起きてるのか見ることはできないんだ。何かに集中したり、何かを執拗に”見つけよう”としているときは、他のことに気を配れない。本当は、そもそも自分が何を探しに出かけたのか、自分の先入観の火種以上のものを見つけられないだけなんだけど。自分が唯一、見つけられる要素は、飽くなき承認欲求であり、インスピレーションを探し求める聖杯は見つけられないままとなる。最後にとても重要になっていたかもしれない何かをもう少しで見つけられるところまで来ていたとしても。それが、常に全力投球でいることの犠牲だよ。少なくとも、僕にとってはね。そして、難しいかもしれないけど、僕はそれを受け入れるところまで来ている…

じっくり見ないといけないとき、以前は立ち止まっていたんだ。一方で今は、積極的に待って、それを見る心の準備をしている。正直言って、そうするのにタンジェ以外、最高の場所はないよ。だって、ここにはたくさんの閃きがあるから。人生そのものが展開していくのを目の当たりにすることは、僕の感動的なビジョンを限りなく実現することなんだ。だから、自分の心で受け取ったものや、目に見えないものを土台として、創作活動をする僕のようなアーティストにとって、エネルギー不足という状態は、驚いたことに、もっと探るべき全く新しい感覚を生んでくれた。それをマスターできていない一方で、そこに自分をチャネリングすることができる。自分の健康に関しての受け入れや平和からはかけ離れているかもしれないけれど、それは、理解できないことに対して、より広くて、オープンなマインドを持てるようにしてくれたんだ。今日のように、立ち止まることは、少し前まで、心の奥底に咲いていた廃れることへの恐ろしい高波をごまかすために、まるですべての事柄がそうであるかのように装っていたほど、意気消沈するものじゃない。もしかしたら、僕の不安の覆い隠された性質は、実際には思っていたほど遠くに進んでいなかったことや、揺らぐ信仰を影から救い出すような光を人生に与えたことがないのではないかという恐れに関係していたのかもしれない。記憶の限り抱えてきた孤独の広がりが僕を閉じ込めているのか、それとも輝かせることを拒んできた夢の光が僕に重荷を負わせ始めているのか。正直なところ、よくわからない…。もしかしたら、そのどれとも関係ないのかもしれない。それは未知のものを理解することから僕を遠ざけていた、受け入れることにおける解放的なエッセンスなのだろうか?それが何であれ、タンジェは年齢を感じさせない職人たちを通して、すべての存在は粘土の産物であり続け、水と希望、そして積極的な相互作用があれば、何度でも形づくられ、再形成されるのだということを教えてくれている。立ち止まることは、それをも提供するんだ。形を整え、再形成し、磨き、ペンキを塗り、ニスを塗ることは、コミットメントが軽蔑する消極性をはねつけることなんだ。

”美しさの起源は、その人それぞれが心に抱え、隠しているか、または見えるかの違いはあるが、唯一の傷以外にはない。人はそれを守り、そして世界を一時的にではあるが本物の孤独のために離れる時、その傷の中に退く” ジャン・ジュネ (1)
タンジェ
(1) ジャン・ジュネ著作選集 [ジャン・ジュネ、エドモンド・ホワイト]. Ecco Press; First Edition (January 1, 1993).