信じていたんだ…今もかな?!

「Architect of Time」の最初の閃きは、父が亡くなったあと、タンジェを初めて訪れたときに遡る。僕にとって、悩ましい時期で、気持ちが混乱していたし、その時までずっと溜め込んできた心の奥深くのイライラや怒りが爆発寸前のところだったんだ。だけど、当時のノートを見返したときに感じる怒りの言葉とは反対に、「Architect of Time」は、心の内側を静かに覗くような歌で、それが僕の心や感情の復活への大きなシフトとなったと信じてる。そのときは、タンジェへの旅がそんな風になるなんて予想していなかったけれどね。それは純粋な透明性と完全な明快さの瞬間であり、絶対的なものにおいて、かつて”僕”を定義していたものや、抱えるのが重くなりすぎてしまったものについて、自由に表現してるんだ…根本にあった理想的な信念が、内なる絶望の現実と対立する場所であり、それによって内面的で精神的な混乱を引き起こし、僕らはそれを見つめたくないと思う。なぜなら、自分の人生の礎と考えていたもののいくつか – もしくは全て – が実際にはこの現実から造り上げたものに過ぎないことに気づくのを恐れるからだ…

だから、この曲の印象は冷たいと感じるかもしれない。そして、人がそれぞれ持つ価値観、確信、主義や信仰、信念と対立するかもしれない。でも、自分の心地の悪さを越えて、歌詞の中で鮮やかに曝け出されている問いかけに触れるとき、魂が解き放たれる状態を感じ始めることができる。魂が望むように定義していた全てを自ら剥ぎ取るときに。それは、光が鍵のかかった心の扉を開け始める瞬間であり、それによって、自分を立て直す可能性を思い描くことができ、少しずつ、自分の存在した嵐を抜けて、アイデンティティを定めていた必要不可欠な要素と言われるもの、その偽造と欺瞞から自由になる。よくデザインされた幻のヴェールなしに自分自身を見つめる、とても難しいアプローチだよ…

実際、数年前に「Architect Of Time」のデモをBenと作ったときのことを覚えてるんだ。”僕は信じていたんだ…”というフレーズがリピートされるのが、Benにとって自由な考えを与えていたのに対し、”神を信じていたんだ、膝をつき、天国を望んでいた”と続いた歌詞は、かなり熱い口論を招いた。Benにとって、このフレーズは信仰を否定するものだったんだ。そこに伴うグローバルなニュアンスを感じていなかった。彼にとっては、絶望感や悲しみではなく、神を信じる事は全くの詐欺であり、嘘であるという考えに気付いたということを意味していた。この時の会話がどれだけ激しいものだったか忘れていたよ。彼にとって”信じていたんだ…”という言葉は”問いかけ”ではなく、公に自分はもう神を信じていないと告白することだった。けれど実際には、それとは全く関係なかったんだ。それはむしろ自分の人生を、目の前で膝をついている教義的な偶像と一致させるというコンセプトについて。僕にとって、神は組織された宗教ではない。そういう構成的な設定を信じる人たちをジャッジしようなんて思ってもいない。僕には様々に違う友人たちがたくさんいる。神父、イマーム、社会活動家、ライフコーチなどなど。僕らはみんな何かしらの”宗教”に属している。その呼び方がなんであろうとね。僕が指しているのはそこなんだ。教義主義と解放。

Benは僕のポイントを理解し、そこにある感情の表現方法を受け入れてくれた。そして、彼自身の人生の流れも、その言葉を体現しただけでなく、彼自身の一部になったんじゃないかと思う。興味深いことに、長年一緒にやってきていた中で、僕の歌詞について対立したのはこれが初めてだったんだ。それは、僕にとって、とても良い経験だった。言葉は命を育む力も、奪い取る力も持っていることを思い出させてくれた。変わっていく考えに力を与えもすれば、いかなる復活を潰してしまう力もある。だからこそ、僕自身が歌詞に持つ考えを分かち合うとき、Benとの、この会話を思い浮かべるんだ。”クール”に書くのではなく、”正直”に分かち合うこと…そして、そうすることにある恵みを、僕は深く信じている!!!