安全が欲しい!!!安全が必要なんだ!安全って何だろう?!

“安全は偽りの神だ。そのために自分を犠牲にし始めたら。君はおしまいだよ”
ポール・ボウルズ

メキシコに足を踏み入れてから、新鮮な時間を過ごしているよ。海のそばで物思いにふけるのは、いつだって僕のミューズだ…それとJeffと一緒に深い会話をして、見知らぬ人たちと友達になって笑い合い、幸せ、優しさとクレイジーさを目撃することも、全て素晴らしくインスピレーションに溢れている。人が人であるということ。”ユニフォーム”なしに。政治的なアジェンダも、社会的不信もなく…ただの人が人であるままに。それが好きだ。実際、それが恋しかったんだ。だから、数日ここに来られるのは本当に恵みだよ。たくさんの人が日食について興奮しているけれど、僕は個人が放つことのできる光に魅了されている。それをここで見ているんだ。もちろん、ここは休暇のための場所だから、悲しみなんて、そもそも似合わないけど、僕が深く考えていることは本物だよ…慈悲のかけらなんだ。種族としての僕らへの疑いや、この先どんどん憂鬱になっていく気がしてならない未来への思いを満たすのに十分な純粋な心の断片があると思う。”トランプがアメリカを救う2024″と書かれたキャップをかぶっている人が、イラク人を祖先に持つ人と、楽しく過ごしているのを見るとき、より良い明日への信念を後押ししてくれる。僕らが自らデザインした環境から生まれる偽物の安心から脱すると、人生の根本的な要素に立ち返るんだ。それは僕にとって、一言で”人との関係”と描写できる。

最近ずっと”安全”の概念について考えてきたんだ。ここ10年ほどで、それがいかに日常の要素になったか。僕にとって、そして多くの人にとって、それは不可欠なものだ。現実問題としての安全についてだけでなく、感情と精神の安全についてもそうだよ。心を完全に閉じながら、開いているフリをするのが僕らは大好きだ。時にシニカルにならざるを得ないよ。特に一般常識が、過激派かのように映し出され、暴力に意見を述べると、まるで崇高な正義の行為かのように受け取られる。ただ、その時に正しい行いをしただけなのに。もはや死んだ人間にパスポートなんて必要ない。本来どこの国の生まれだろうと、誰かが泣いてくれる。亡くなった人を悼むときに感じる心の痛みは世界共通だ。何を信じようと、主張しようと。どう生きようとも、誰もが共感できる。そして、再び人生の根本的な要素へと立ち戻るんだ…関係に。だからこそ、今の世界情勢に心に心が痛むし、魂も消耗しているんだ。そして、いつか怒り、苦しみとフラストレーションの巨大な波が僕らを襲うだろう。自分の闇と向き合うときの、僕の”セキュリティ”は何だろう?誰だっていつか直面するのさ…それにどう反応して、対処するかが、人として、友人として、恋人として、コミュニティとして、グループとして、どうなりたいかを定義する。

ポール・ボウルズの本『The Sheltering Sky』から、今朝、素晴らしい言葉を読んだよ。最近タンジェが恋しくなっているのかな 😉

“死は常に迫っているけれど、いつ訪れるのか分からないという事実によって、人生の有限性が遠のいているように感じる。私たちがとことん嫌うのは、その酷い精密さ。けれど、私たちには分からないからこそ、人生を終わりなき井戸のように考えるのだろう。

けれど、全ての出来事は、特定の回数のみ起き、それは本当に数えるほどしか起きないのだ。子供の頃に過ごしたある午後の日を覚えているのは、あと何回だろうか。とても深く自分自身の一部となった午後の思い出だからこそ、それなくしてはその後の人生はなかったと思うほどの思い出を?

おそらく、4回か5回くらいだろう。もしくは、それ以下かもしれない。あと何回、満月を見ることができるだろう?20回くらいか。それでも、全て無限に思える”

すぐに今、制作中のアルバムのテーマを考えた。どうやったら、死、生き延びること、嘆き、痛み、否定、怒り、苦しみ、フラストレーションなどを、自暴自棄へと落ちずに、またより酷く、周りの人たちをもそこに引きずり下ろすことなく、分かちあえるだろうか。正直さは残酷で残忍だ。時間がそうであるのと同じように…逃れることはできない。色々な意味で、非常に公平であることは、いつだって不公平だ。僕らにはいつだって、それを定義する日があり、それをし続ける別の日がある。もしも、幸運ならね。世界では多くの人たちが若く見せようとし、自分の砂時計に挑もうとし、そして、時計の針を逆戻りさせようとしている。その全て、一瞬たりとも自由を”生きる”ことなしに。これは、もちろん一般的な例だよ。でも、アーティストとして重要なのは、その超越的で触れられない透明さにできるだけ近づくことで、その放射する虚無感を感じることなんだ。まるで電気の磁気の波動を感じるように、それに近づくとその振動を感じることができる。僕らはそれを見ることはできないけど、近づくとその電磁力を感じることができる。僕らはそれに触れたいと思うけど、そうすると重大な身体的な結果を招く可能性があることを知っている。けれど、それには信じられないほどの魅力があるんだ。

僕にとって、創造も、感情的で精神的なレベルで同じ現象なんだ。毎回、源を見つけるためにできる限り近づいてみて、そのたびに安全感を失い、前回よりも少しでも近づこうとする… 最終的には、それが自分を完全に打ちのめし、脳から、さらには重力からも外に押し出す。完全な浮遊状態になるんだ。そして、ほんの一瞬の間、宇宙の壮大な側面を見ることができるのさ。まるで時間自体を止めることができたかのように、不安や苦しみがなくなる。そこには信じられないほどの完全性があるだけで、夢のような体験から覚めると、わずかな一瞬の間に、ささやきよりも短い時間の要素がたくさんあったことを覚えている。それが僕の求めているものだけど、僕らがやったように、速く、速く、もっと速くすることによって、結果としてアルバムに命を吹き込むことができると、自らを納得させよう、という時に、そんな体験に近くことすらできていないと気づいたんだ。勢いは素晴らしいよ。けれど、目的地も何もないまま、できるだけ速くへ進むよりも、意味深い目的地に向かって、ゆっくりだけど、確実に進んでいく方が良い。心の内側の旅は時間がかかるんだ。

面白いよ。だって、今朝、地平線を見ながら、まさにそのことについてJeffと話したんだ。僕は:「ジェットスキーを見てよ。スピードに乗って、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、さらにスピードをあげてる。けど、もっと遠くを見てみて。ヨットだよ。僕らの目にはすっごく小さく見える。ジェットスキーよりも、ずっと遅いけど、ずっと遠くまで行けるんだ」それを、まさにスタジオで感じたんだよ:もっと速く、あっちへ、こっちへ…でも、出発地点と同じ場所を訪れては、離れ、また戻ってくるだけで、どこにも行けていない。改めて、アルバムを一から作り直すとき、ヨットの法則をとるべきなんだ。岸に近い場所の方が、安全だし、安心だろう。まるで死のように。でも、僕は岸から離れたいんだ。僕は危険が欲しい。本物が欲しい。僕は酷く恐れたいんだ。高波と命を脅かすような大惨事が欲しい。それこそが僕にとってのアート。クッキーカットのフォーマットに興味がなくて嬉しいよ。だって、正直、僕は上手くないからね。だから、僕は今から、安全なしの方向へと向かっていくんだ。
言っただろう、海は僕に影響を与えるんだ。そして、水が僕の内なる旅を振り返る十分な時間と組み合わされると、とっても危険なのさ。僕らが最終的にひざまずかなければならないと信じている嘘を映し出す鏡ではないにしても、安全とは結局何なのか、そしてなぜ究極の反抗行為とは、立ち上がって一歩一歩前進するたびにチャンスを掴むことなのだろうか…