[Convergence Québec] 見返りや条件なしに愛するということ、究極の招待

掲載:CONVERGENCE QUÉBEC

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こんにちは、Alex!僕らが初めて出会ったのは20年ほど前のカナダ西部で、あなたがまだバンドでインターナショナルなキャリアを積む前のことでした。そのあと交流が途絶えてしまいましたが、最近Your Favorite Enemiesと、そのグループ周辺に築き上げられたコミュニティについて知ったんです。バンド活動へと導いたヴィジョン、あなたのコミュティと現在の活動について教えて頂けますか。

僕らの根本にあるもの、そして、そこから生まれる様々なプロジェクトやそれを定義するものは、まず何よりも、僕らを結ぶ深い友情の物語だけど、お互いに与えようと決めた寛容な愛でもあると思ってるんだ。その愛によって、プレッシャーとか虚勢など無く交流することができる。許しと癒しと解放を与える愛なくしては、コミュニティとして生きることができなかったばかりでなく、ここ数年間に命を吹き込んできたプロジェクトのどれもできなかっただろうと思うよ。歌手キース・グリーンについて、奥さんが彼の悲劇的な事故死のあとに書いた伝記に、とてもインスピレーションを受けたんだ。機会があったら、ぜひ読んでみて。

人は時に、理解するために定義しようとする。でも、自分自身に与えられる最も美しい贈り物は、本来の自分を認めることにあると信じているんだ。誰もがみな美しく、聖なるものを持っているのと同時に、誰もが最も醜く、身勝手な部分を持っている。一度、この真実を本当の意味で認められたら、正直に他人にアプローチできるだけでなく、誠実な気持ちで相手を受け入れることができると思うんだよね。もしも、その全てを説明する方法があるのだとしたら、僕らのヴィジョンは他人へと向かっていくものであるのと同じくらい、他の人が僕らのところに来て欲しいという深いニーズを認めることだと言いたい。あらゆる気まづさ、限界、矛盾、不完全さや、それぞれが抱えているものや、それに伴う結果の全てを含めてね。

そういう無欲さを信じる人間は世間知らずな奴でなきゃ無理だって言われるんだ。それはきっと本当だと思う。世間知らずでありながら、頭脳明晰になれるだろうか?多分ね。でも、それ以上に、僕にとって愛することは、何よりもまず、選択なんだ。受け入れることが”正しい”選択であったとして、というか、誰もがそれを選ぶべきであるとして、それでもなお、最も個人的なコミットメントを必要とする。だって、人間の本質はその愛を与えることにも、受け取ることにも抵抗するから。特に、それが傷を残すものとなったり、または誰かを傷つけたという後悔と共に生きていかなきゃいけない時にはね。きっと、だからこそ自分のことだけを考えて、それによって自分にだけ、ダイレクトに有益なものを受け取る方が”シンプル”で”自然”なのかもね。

そしてきっと、だから僕は、愛することは難しいことじゃないっていう人たちを尊敬するんだ。”自分を捧げる”ことの意味を体現しようと決断するとき、人を愛するというのは僕にとって少し複雑なコミットメントなんだよ。

“Alive. Never Alone.”キャンペーンとは何ですか?また、このキャンペーンを始めた理由は?
 
友人の1人が自殺したという知らせを聞いたあと、この現実に取り組む必要があると思ったんだ。それだけでなく、この心の苦しみに関する孤独を壊すために、みんなを招待したいと思った。僕は自分の嘆きを表現して、僕自身も鬱や不安症に悩まされている1人であるとシェアしたかった。普段あまり触れられない話題について扉を開け、この一方通行の道を考える罪悪感について、また、そう感じていると認めることで受ける批判、それがどれだけ難しいかについて話すことで、光を招待したいと思ったんだ。何が人をその方向へと導くのか、なぜ解決策としてその道を選ぶのかについてディスカッションしたかった…手を差し伸べるために。
 
この現実は、今も社会を分裂している。今でもまだタブーであり、どこか話しづらい話題だ。そして、大体そうやって狼狽えたり、分裂を生む事実が、この問題に取り組まない言い訳になっていたり、人生や社会に生きる複雑さを認めることで愛や思いやりが生まれるはずであるのに、結局は心理的なエクササイズで終わってしまっている。他人を受け入れることは、その人を理解することについてでも、精神分析をすることでも、キリスト教を伝道することについてでもなく、ただその人自身を受け入れることについてだ。誰もが人生でその必要を感じるのと同じようにね。それが“Alive. Never Alone.”の意味なんだ。
 
僕はこういう質問にとても敏感だよ。父親がキリスト教徒になる前に、うつ病と闘いながら不幸せそうにしているのを十代を通してずっと見てきたからね。こういう話題は、その過激さ故に、話す勇気や大胆さを持てた人たちを分裂してきた。意見も大抵、過激で凝り固まっているんだ。命を絶つという究極のジェスチャーの含みと同じくらいにね。信仰を持ちながら、こういうタイプの葛藤を持っても良いだろうか?自ら死を選ぶという行為は、最たる臆病者がする行為だろうか?自分の命に関する力を奪い返すことになるだろうか?苦しみをある時点で完全に終わらせるために自分でコントロールする方法だろうか?それは最も歪んだ身勝手さだろうか?それとも、悪魔が人生を支配することから守る行為だろうか?そうすれば、自分の愛する人たちに与える痛みを終わらすことができる?心と魂に感じる痛みの理由が理解し難いのと同じくらい、たくさんの違った意見がある。その討論は、僕らが理解できないこと、説明できないことや、認めたり、許したりできないことへの不安を映し出してるに過ぎない。
 
実際、だからこそ“Alive. Never Alone.”は招待なんだ。討論でも、理解しようと努めることでも、説明や質問に納得しようとすることについてじゃない。ただシンプルに、傷ついても良い、恐れても良い、どう感じて良いのか分からないとか、混乱してるとか、感情的な苦悩に打ちひしがれていると言っても良いんだということ。それと同じように、愛する人が自ら命を絶ったときに、怒りや憎しみや混乱を感じても良いんだ。そういう感情をタブー視せず、その孤独感を壊すことで、僕らは受け取ることができ、自分を恥に感じたり、弱いと思ったり、悲観的だとか絶望した人間のように見ることなく、心を解放できる。受け取ることは、人生が生きる価値のあるものだと説得することについてじゃないし、解決策を見つけることでも、心の痛みのナンセンスを描写することについてでもない。受け取ることは、腕を広げることについて。そして、腕を広げるとき、それは信じたことを放棄したり、人生でしっかりと握っているものを手放すということじゃなく、それは、自分を他人へと献身するために、ただしばらく違う方向を見るということ。
 
僕らが生きる世界は、成功についてコンスタントに続くプレッシャーを受け、偽物のセルフィーで出来上がった存在として、幻想に生き、笑顔を強いられ、本当の自分を映した逃れられない鏡や、他人に本当の自分を見られる恐怖とカウンターバランスを取っている。それは、正直言って、どちらも酷い影響を与えるように思う。多かれ少なかれ、僕らは誰しもがみな、この現実の産物であり、人生においてそれが唯一の繋がりであったとしたら、唯一、自分自身を評価するものであったとしたら、その忍耐はどんどん重くなっていく。そんな社会の中で、どうやったら本物で正直なものとの繋がりを失わずにいられるだろうか?僕はこの幻想の中で過ごすにつれ、日々、少しずつ圧倒されている。他人の生きる痛みが分かるなんて言えないけれど、毎日、戦わなきゃいけない人にとって、それがどんなに残酷なことかは分かるって言えるだろう。僕はこれに基づいて、みんなを交流に招待したんだ。
 

あなたの音楽は共感に溢れています。この共感はどこから来るものでしょうか?また、人間らしさが失われ、人々を二分し、お互いの間の距離がどんどん開かれている現代社会において、この必要不可欠な資質をどう再発見できるでしょうか?

本来の自分を認めること。そして自分が深く必要としているものを理解することから生まれると信じてる。僕にはほんの少しの答えがあるだけで、解決策なんて持ってないけど、それを認める中に解放的な力があると気付いたんだ。それは、確実的なものや絶対的なものから自分自身を自由にし、人の話を聞いたり、話し合ったりする心の余裕を持たせてくれる。他人が与えてくれる正直な心は、僕が彼らに与えてあげられるもの以上だよ。それは自由を与えてくれただけでなく、他の人と嘘偽りなく分かち合わせてくれているものでもある。少なくとも、僕にとってはそうかな。

次の質問を待ちわびていたんですけど、Convergence Quebecの目的の一つは、信仰によってクリスチャンたちが隣人たちの良いところを探し求めるよう励ますことです。あなたたちのグループと時間を過ごしてみてすぐに気付いたことは、”福音を提示する”チャンスがあろうと、なかろうと、あらゆる活動を通して希望を伝えようとしていることです。様々なことを、あなたが実行する状況の中で、どう神様が働いていると思いますか?
 
実際、福音を提示せずとも、それを体現している人のことはどう考えるの?僕は過去に、そのプレッシャーとだいぶ戦ったんだ。というのも、それは大抵、特定の人や、他の人たちの野心とリンクした結果だったり、または他人を喜ばすためとか、他人から良く見られたいという思いからきてるから。それは僕の中で、教会という組織との間に衝突を生んだよ。人ではなく、信仰でもなく、いわゆる組織と呼ばれる隔離的な性質との間にね。そこには、外面や見せかけの宗教主義のカルチャーがある。仲間に入れて欲しいという鎖は、否応にも組織との関係によって成り立つんだ。教会が持つ、このエリート主義、様々な違いへの管理に酷く困惑した。それは結局、人間の性を反映しているに過ぎない。敬虔さや神聖さのイメージを投影する必要があるという本質的なニーズこそ、僕としては、人間性を奪うものであり、時代遅れで、日々の中に見る方向性を見失うような混乱において、お互いが必要とする基本的なものから追いやっていると思う。そう思うのは、個人的な経験から来る厳しい見方だろうか?それは疑いようもないだろう。けど、それでも誰かを”招待する”ときには、自分の心の奥深くを覗いてみる必要は変わらないと思う。
 
これが人を惑わすタイプの考え方であることは分かってるけど、教会が”良し”とした共食いの文化について僕は葛藤を覚えたからこそ、バンドYour Favorite Enemiesとのキャリアにおいて、いかなる形でも関わるのを拒否していたんだ。恥じる気持ちは僕の信仰とは関係がない。それよりも、共感を呼ぶためではなく、教会のため、組織的な目的のために自分の信仰を使われることについてだった。クリスチャンの団体から招待を受けるようになったのは、ごく最近だよ。それを恵だと思えるようになったのもね。というのも僕にとって、福音の本質はそれを体現することであり、その体現というのは、相手が誰であろうと、何を反映していようと、何を信じていようとも、関係なく愛することにあるから。
 
僕にはゲイの友人がいて、僕は人権活動家でもあり、彼らを守り、認めてもらうために自分の声を使うことを厭わないと言える、それがなかなか想像できない人たちもいるみたいなんだ。牧師をしている友人たちの献身と思いやりに感動したのと同じように、ムスリムの友人の誠実さにインスピレーションを受けたことが、どれだけ嬉しかったか。今現在の僕へと導いてくれた人たちの一人に、自分の人生を40年間、アフリカ中部の人たちに捧げている人がいる。彼は、国中に与えた影響への名誉や自分のことを見返すことなく活動し続けている。それと同じように、自己中心的でエゴイストなアルコール依存症者だった父を、助けが必要な人たちに手を差し伸べる人間へと変えたのは、愛だった。彼らはみんなありのままの自分をそのまま体現する勇気があって、そこにこそ本物の証が存在し、そこから力が流れるんだ。偽りや見せかけではなく、ありのままになること。それこそが、僕らの時代の挑戦であると思ってる。
 
僕の父は、ただ闇雲に既存の仕組みに挑んだり、しきたりを壊すためではなく、ありのままの自分を受け入れる準備が整った上で、思っていることをはっきりと言えることに誇りを持つよう教えてくれた。なぜなら、宗教的なプレッシャーから自由になるのに時間がかかったからだ。そして、そこから自由になることによって、彼らが支持した偏見に気づき、僕が自分の人生や他人に向けた愛を、彼らの思うように体現していた時にだけ正当となる、そんな偽善を認めることとなった。結局、僕を不快にさせたり、悩ませたものは、完全なる愛の欠如が映し出されたものだったんだ。今は、無条件に人を愛することは難しいと同意するだろう。むしろ、不可能かもしれない。けれど、自分に対して正直になるとき、他の人たちに与えたいと望む良いものを体現できると信じてるんだ。それが何であろうとね。見返りを期待することなく、伝道の意味を含まず、そして間違った口実を言うこともなく。僕にとって、福音の本質は愛すること。それだけなんだ。
 
けれど、僕が成長していく環境で、この愛の働きを見るためには、まず何よりも、その矛盾した本質を受け入れる必要がある。ここ15年間エンタメ業界にいて、人はよくこの世界を暗闇における避難所のように考えがちだ。一部の人たちのでたらめなライフスタイルが、そこに関わる人たちにとっての特権になっているように見える。必ずしも、そうではないのに。恐れと理解できないことは、いつだって定義できないものに力を与える。この環境に魅了されているから、そう見えるだけだろうか?もしかしたら、そうかもしれない。僕のいる環境には個人への賛美があるんだ。自分たちのヒーローを尊敬するのと同じくらいにね。それは、自分がどんな環境にいようと存在する。愛すること、ありのままでいること、感じること、認められること、特別な存在やユニークだと思われたいのは、僕ら人間の本質だ。それが人間であることであり、深くて複雑なアイデンティティの中で、舵を取ろうとしているのさ。
 
人生には美しい物語も、恐ろしい物語もある。広い心を持つ人もいれば、弱者による恥知らずな虐待もある。社会的正義に対する見事なコミットメントを見ることもあれば、社会的ステータスによる特権を使った偽善者もいる。それが僕らの生きる世界のイメージだけど、目に見えないものや手で触れられないものへと、よりオープンになっている気がしているんだ。そして、このオープンな心は、僕らが他人に与える愛から来ている。そこには交流、告白と解放がある。僕にはそれが見えるんだ。だって、僕自身もみんなと同じだから。僕にも葛藤があり、失敗したり、逆戻りしたりする。間違った偽りだったり、幻想だったり、またはイライラもするし、後悔もある。けど、許しが持つ贖いの本質や歓迎されること、許されること、愛されることにある力も知っているんだ…そして、自分が何であるかを認識しているからこそ、この招待は神学的な討論でもなければ、知っているフリをするためのプラットフォームでもなく、ありのままの自分でいることにおける謙虚さと、その現実を分かち合うことについてなんだ。 
 
隣人たちやコミュニティに良い影響を与えたいけれど、どこから始めて良いか分からないという人に何と声をかけますか? 
 
ありのままの自分になろうって言うかな。だって、結局はそれが大事なことだから。自分に正直になるのと同じくらい、他人に対しても正直になること。だって、他人に与えられる最も美しいものは、人間であることの意味に対して敏感でいることだと思うから。それこそ、他の人たちと交流したいと言う望みを持っていると認めた人が、分かち合いたいと願っていることだと思うんだ。口論ではなく、腕を広げること。絶対的なものではなく、思いやりを。少なくとも、僕はそう考えている。見返りや条件を求めることなく愛することが、究極の招待だよ。
 
キース・グリーンの本についてどう思ったか、ぜひ君の感想を聞かせて。

JEREMY FAVREAU

2020年9月

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