自動検閲と自主規制
昨日は久しぶりに、僕の書いたことは、いき過ぎだっただろうか、と感じた。昔の話をするのは簡単じゃないんだ。特に、今でも傷が痛んだり、毎日、対処しなきゃいけないトラウマの一部なっていたりするから。でも、一番の心配は、自分のこととか、自分がどうやって受け取られるかではなかったと思う。世間に良い顔するために演技をすることもないし、自分で作り出す神話にも興味はない。僕の正直さ故に、消費対象としてのファンタジーのイメージにそぐわないのであれば、移り変わる製品イメージへと我を失うよりも、むしろ自分自身でいることを選ぶ。それに、役を演じるのが面倒になるくらい、僕はもう十分に苦しんでいるしね…全てはどう受け取るかによるだろう? 😉 そうではなくて僕の心配は、友人たちのことだった。僕らの物語は、親密に絡み合っているから、僕がそれについて話しても良いか迷ったんだ。心と魂の事柄に関してはとてもセンシティブで、過去のトラウマがまた浮上する理由になりたくはない。こういうタイプの精神的なトラウマは、それぞれ個人の傷を持っているから。
実際、トラウマの性質に関係なく、僕らは皆、痛みや悲しみのすべての部分を深く埋めて、最終的にはすべて忘れたり、乗り越えたとさえ信じたりするために、どこかに深い穴を掘りたいと思っているんじゃないだろうか。そんなに簡単にできたらいいのにと思うこともあるけど、そう簡単にできることはほとんどない。それと和解することを学べば、どういうわけか感情が再配線され、ある種の支配的な人物と対峙したり、対立状況の真っ只中にいると、すべてが再び戻ってくる。必ずしもトラウマ自体が原因ではないけど、自分の反応、またはその欠如により…自分の制御反応は、少なくとも瞬間的には、過度に従順であるのと同じくらい不釣り合いに暴力的である可能性がある。なんで自分がそんな風に反応しているのか分からない。そして、時に分からない方が良いときもある。でも、自分の反応のきっかけになったものについて少し考える時間をとってみると、人生の古い光景、消し去って、編集したと思っていたのと同じ風景が、鮮やかに現在に蘇るだけでなく、全く老いていないことに気づくんだ。しかも知らない間に、サイドストーリーにまで手を伸ばしている。それは自分の恋愛関係、友情関係、創作、人生観などなど、その全ての一部になっている…まるで自分や他人の惨めな季節の副産物となっているかのように…。だからこそ、前回のスタジオ日記を『影はいつだって疑いに満ちた輝きを求める』と名付けたんだ。完全に闇でもなく、光でもないから。僕らは影のように感じるけれど、影になることが、日々、そこまで苦しまないっていう意味だとしたら、それだけでも、僕らの多くにとって慰めとなる。僕らは歩き回っているけど、まだ完全に否定の亡霊にはなっていない。それは究極の勝利だ。それらが何であるか、実際に何を表しているかに関係なく、僕らはすべて取り上げる。それらはいつか僕らが定義することになるだろう。
だから、教会に行っていたときの、僕ら全員に通じるトラウマについて書くとき、僕のオープンさのリミットをどこにセットすべきか迷うんだ。リミットを設けるべきだろうか?自分を自動検問すべきだろうか?それとも、打ち明けていることを制御すべきだろうか?自由に自分を表現することと、公共のものとして話すべきでないことの間にある線は、いつも曖昧だ。僕は基本的な2つの”ルール”を守ってる;僕の書くことが、君たちに感情的影響を与えるかどうか、そして、どれだけ自分が傷ついていても、僕の人生に関わった人たちの悪口を決して言わないということ。残りに関しては、自分の書くことを制御したりしない。他人の意見がどうであろうとね。僕は今日、正直であって、明日には誠実に自分が間違っていたと思うかもしれない。それは常に考えるモーションにいることなんだ。真実を求めることについてでも、究極的で絶対的なものが何かをセットすることでもない。僕が探究しているのは、無形の定義不可能性、精神性の超越的な要素、そして僕らの存在の目に見えない側面。僕にとっては、全ての創作の源がそこにあり、そこから全てが開花する。少なくとも、僕の場合はそうなんだ。それがやがて、独自の存在へと成長し、その源に浸ることができるのさ。だからこそ、僕自身、自分のアートの真髄を解釈するのが難しいのであり、僕らの誰も、その発展がどう進んでいくかを予見できない理由だと思う。それは、到る場所にあって、時に理解するのが難しいんだ…僕のせいさ。なんてね 😉
一つだけ確かなのは、僕のナンセンスを理解しようとする友人やバンド仲間にとって、それがとても悩ましいこと。だから、僕が公開したものについて、何でも話をするんだ。不定期に更新しているジャーナル“From A Stranger To Another”から、このスタジオ日記まで。そして、1日1万歩のノルマがあるから、歩きながらみんなで話すのさ。昨晩は、Jeffが僕に言った言葉に、胸騒ぎを感じた:「昨日の日記では、僕らのパンドラの箱の起源を開いたね」って。僕が書いたことについて、不安や疑いを感じるまで時間はかからなかった。僕はオープンカンバセーションで曝け出すよりも、自分の考えを文字にして書く方がより勇敢になれるんだ。だから、Jeff、BenとMiss Isabelに、僕が言いすぎたかどうか何度も聞いた。それは、とても生々しい、現実的なタイプの会話へのスペースを作った。いくつかは僕らのお互いの過去についてだったけど、主に個人として、そしてグループとしての僕らの現在の行動への明らかな影響についてだった。「私たちは大きなダメージを受けているけど…でも私たちはサバイバーであって、犠牲者じゃない。それを誇りに思うべきよ。センサーシップなんてクソくらえだわ」とMiss Isabelが言った。説教者の娘として、彼女は宗教が育て、搾取する可能性のあるすべての「病気」の最前線で成長した。そして、最終的には僕ら全員がそうなっていたんだ。けど、ありがたくも、その過程で、思いやりの心と発展していくマインドを失わずに済んだ。”神様”に感謝だ。
実際、トラウマの性質に関係なく、僕らは皆、痛みや悲しみのすべての部分を深く埋めて、最終的にはすべて忘れたり、乗り越えたとさえ信じたりするために、どこかに深い穴を掘りたいと思っているんじゃないだろうか。そんなに簡単にできたらいいのにと思うこともあるけど、そう簡単にできることはほとんどない。それと和解することを学べば、どういうわけか感情が再配線され、ある種の支配的な人物と対峙したり、対立状況の真っ只中にいると、すべてが再び戻ってくる。必ずしもトラウマ自体が原因ではないけど、自分の反応、またはその欠如により…自分の制御反応は、少なくとも瞬間的には、過度に従順であるのと同じくらい不釣り合いに暴力的である可能性がある。なんで自分がそんな風に反応しているのか分からない。そして、時に分からない方が良いときもある。でも、自分の反応のきっかけになったものについて少し考える時間をとってみると、人生の古い光景、消し去って、編集したと思っていたのと同じ風景が、鮮やかに現在に蘇るだけでなく、全く老いていないことに気づくんだ。しかも知らない間に、サイドストーリーにまで手を伸ばしている。それは自分の恋愛関係、友情関係、創作、人生観などなど、その全ての一部になっている…まるで自分や他人の惨めな季節の副産物となっているかのように…。だからこそ、前回のスタジオ日記を『影はいつだって疑いに満ちた輝きを求める』と名付けたんだ。完全に闇でもなく、光でもないから。僕らは影のように感じるけれど、影になることが、日々、そこまで苦しまないっていう意味だとしたら、それだけでも、僕らの多くにとって慰めとなる。僕らは歩き回っているけど、まだ完全に否定の亡霊にはなっていない。それは究極の勝利だ。それらが何であるか、実際に何を表しているかに関係なく、僕らはすべて取り上げる。それらはいつか僕らが定義することになるだろう。
だから、教会に行っていたときの、僕ら全員に通じるトラウマについて書くとき、僕のオープンさのリミットをどこにセットすべきか迷うんだ。リミットを設けるべきだろうか?自分を自動検問すべきだろうか?それとも、打ち明けていることを制御すべきだろうか?自由に自分を表現することと、公共のものとして話すべきでないことの間にある線は、いつも曖昧だ。僕は基本的な2つの”ルール”を守ってる;僕の書くことが、君たちに感情的影響を与えるかどうか、そして、どれだけ自分が傷ついていても、僕の人生に関わった人たちの悪口を決して言わないということ。残りに関しては、自分の書くことを制御したりしない。他人の意見がどうであろうとね。僕は今日、正直であって、明日には誠実に自分が間違っていたと思うかもしれない。それは常に考えるモーションにいることなんだ。真実を求めることについてでも、究極的で絶対的なものが何かをセットすることでもない。僕が探究しているのは、無形の定義不可能性、精神性の超越的な要素、そして僕らの存在の目に見えない側面。僕にとっては、全ての創作の源がそこにあり、そこから全てが開花する。少なくとも、僕の場合はそうなんだ。それがやがて、独自の存在へと成長し、その源に浸ることができるのさ。だからこそ、僕自身、自分のアートの真髄を解釈するのが難しいのであり、僕らの誰も、その発展がどう進んでいくかを予見できない理由だと思う。それは、到る場所にあって、時に理解するのが難しいんだ…僕のせいさ。なんてね 😉
一つだけ確かなのは、僕のナンセンスを理解しようとする友人やバンド仲間にとって、それがとても悩ましいこと。だから、僕が公開したものについて、何でも話をするんだ。不定期に更新しているジャーナル“From A Stranger To Another”から、このスタジオ日記まで。そして、1日1万歩のノルマがあるから、歩きながらみんなで話すのさ。昨晩は、Jeffが僕に言った言葉に、胸騒ぎを感じた:「昨日の日記では、僕らのパンドラの箱の起源を開いたね」って。僕が書いたことについて、不安や疑いを感じるまで時間はかからなかった。僕はオープンカンバセーションで曝け出すよりも、自分の考えを文字にして書く方がより勇敢になれるんだ。だから、Jeff、BenとMiss Isabelに、僕が言いすぎたかどうか何度も聞いた。それは、とても生々しい、現実的なタイプの会話へのスペースを作った。いくつかは僕らのお互いの過去についてだったけど、主に個人として、そしてグループとしての僕らの現在の行動への明らかな影響についてだった。「私たちは大きなダメージを受けているけど…でも私たちはサバイバーであって、犠牲者じゃない。それを誇りに思うべきよ。センサーシップなんてクソくらえだわ」とMiss Isabelが言った。説教者の娘として、彼女は宗教が育て、搾取する可能性のあるすべての「病気」の最前線で成長した。そして、最終的には僕ら全員がそうなっていたんだ。けど、ありがたくも、その過程で、思いやりの心と発展していくマインドを失わずに済んだ。”神様”に感謝だ。
それが、ありきたりな物語になってしまう可能性がある中での唯一の希望の光だよ。僕は、いかなる独断的な統制や教義への服従も軽蔑しているけど、その環境からようやく抜け出したあとも、慈悲を行動に変え、平和と個人の解放を育み、困っている人々の利益のために自らを差し出す人々に対する称賛の気持ちの開花が止まることはなかった。むしろ、その反対により一層、その思いが強くなっていったんだ。そして、復讐心と無慈悲な神への恐れから行動するように教え込まれたのなら、僕が見つけたのは結局のところ、恵みについてのより深い概念だった。それは、許すと決めた瞬間に芽生えたんだ。僕は彼らをみんな憎んでいて、あんな場所は焼け落ちれば良いと思っていた。あの男をボコボコにして、建物をぶち壊してやりたいって。(あぁ、こういう感情は直感的にすぐに戻ってくるんだ。僕の中にまだ少しだけ怒りが残っているのかも)僕は憎しみで自分に毒をもっていた。僕らみんなそうだ。許しは愛の行為の中で、最も難しいものだと思う。あぁ、全くだ。特に、自分の細胞の全てで憎しみを抱えているときにはね。けれど、本当の意味で許したとき、解放として訪れたんだ。癒しが始まった。僕らは歩きながら、それについて話していたよ。僕らが忘れることはない。できないよ。残虐行為の影響は、僕らの感情のDNAに永遠に刻み込まれる。けど、一度それを自分自身に認めてしまえば、それが自分の行動に与えている鮮やかな影響を認識できるようになって、なりたい自分を変えられるかどうかを決めることができる。その点では、他の日よりも良い日もあるんだ。
スタジオ日記後の会話ウォークのおかげで、僕が書くよりもはるかに深く掘り下げることができた。僕らは、自分たちを今の地位に導いたものを決して恥じるべきではなく、個人として、そしてバンドとして最終的に僕らを形作ったものを曝け出すことを恐れるべきではない、と言って締めくくった。でも、BenとJeffが正しく言ったように、僕らみたいな人たちが実際どれだけいるだろう?教会に答えを求めた誠実な人たちが、人間が生み出した宗教の墜落によって、自分の正直な信仰が燃やされるのを見るだけでなく、ありのままの自分であることで学校でいじめられる人たち…仕事や、家や、オンラインでも…孤独なまま置き去りにされ、人生に2度目のチャンスを与える気力すら奪われ、良いものを信じることすらできないくらい脆弱になり、自分の命を断ったり、他人の命を奪ったりする。僕のニュースフィードは、犠牲者やサバイバーでいっぱいだ(僕やBen、Jeff、Miss Isabelのような)。光へと足を踏み入れるのを恥じ、生きてることに罪を感じ、絶望し、無力だと感じる…僕らみんなそうだ。その程度や形は違えどね。もしも、僕らが恵まれているなら、世界の最も荒廃した闇にまだ直面していない。そして、もしも直面したのなら、そうならずに済んだことを願わずにはいられない。君は一人じゃないよ。それを忘れないで。
そうやって僕らは、その夜を終えたんだ。このスタジオ日記で、僕が引いたかもしれない唯一の線は、手を伸ばしたりするタイプの線。そして、このくだらない精神性の話がアルバムを書くことと何の関係があるのか疑問に思っているなら、まさに僕はこれらの言葉の一つ一つを通して、アルバムを形作っているんだよ。今はアルバムの魂を確かなものにしているんだ…だから、我慢してね。意図的な自己放棄のために作られた意味深いノイズよりも、危険なものはない。それが全て僕の望んだようにラウドになるかどうかは分からないけど、正直さと同じくらい重いものになると思う、自動検問も自己制御もなしにね。魂を開くとき、イヤープラグは必要ないのさ 😉
メモ:助けが必要な場合や、誰かと話したい場合、友人や、愛する人や、慈悲深い他人へと手を伸ばすことを忘れないで。脆弱さに恥はないよ。そこには、愛と癒しだけがある。僕も同じ陰った場所にいたことが、何度もある。だから分かるんだ。君は自分や他人が思ったり、言ったりするよりも価値があるよ…人生、人生、人生!!!
スタジオ日記後の会話ウォークのおかげで、僕が書くよりもはるかに深く掘り下げることができた。僕らは、自分たちを今の地位に導いたものを決して恥じるべきではなく、個人として、そしてバンドとして最終的に僕らを形作ったものを曝け出すことを恐れるべきではない、と言って締めくくった。でも、BenとJeffが正しく言ったように、僕らみたいな人たちが実際どれだけいるだろう?教会に答えを求めた誠実な人たちが、人間が生み出した宗教の墜落によって、自分の正直な信仰が燃やされるのを見るだけでなく、ありのままの自分であることで学校でいじめられる人たち…仕事や、家や、オンラインでも…孤独なまま置き去りにされ、人生に2度目のチャンスを与える気力すら奪われ、良いものを信じることすらできないくらい脆弱になり、自分の命を断ったり、他人の命を奪ったりする。僕のニュースフィードは、犠牲者やサバイバーでいっぱいだ(僕やBen、Jeff、Miss Isabelのような)。光へと足を踏み入れるのを恥じ、生きてることに罪を感じ、絶望し、無力だと感じる…僕らみんなそうだ。その程度や形は違えどね。もしも、僕らが恵まれているなら、世界の最も荒廃した闇にまだ直面していない。そして、もしも直面したのなら、そうならずに済んだことを願わずにはいられない。君は一人じゃないよ。それを忘れないで。
そうやって僕らは、その夜を終えたんだ。このスタジオ日記で、僕が引いたかもしれない唯一の線は、手を伸ばしたりするタイプの線。そして、このくだらない精神性の話がアルバムを書くことと何の関係があるのか疑問に思っているなら、まさに僕はこれらの言葉の一つ一つを通して、アルバムを形作っているんだよ。今はアルバムの魂を確かなものにしているんだ…だから、我慢してね。意図的な自己放棄のために作られた意味深いノイズよりも、危険なものはない。それが全て僕の望んだようにラウドになるかどうかは分からないけど、正直さと同じくらい重いものになると思う、自動検問も自己制御もなしにね。魂を開くとき、イヤープラグは必要ないのさ 😉
メモ:助けが必要な場合や、誰かと話したい場合、友人や、愛する人や、慈悲深い他人へと手を伸ばすことを忘れないで。脆弱さに恥はないよ。そこには、愛と癒しだけがある。僕も同じ陰った場所にいたことが、何度もある。だから分かるんだ。君は自分や他人が思ったり、言ったりするよりも価値があるよ…人生、人生、人生!!!