影はいつだって疑いに満ちた輝きを求める

昨晩はバンドメンバーをグリーンルームに招いて夕食を取り、僕らの根源、僕らの友情と繋がり、そして、アルバム制作など年明けからこれまでに起きたことや、ここからどの方向へ進みたいかを確かめる時間を取った。お互いの気持ちや視点を聞いて、理解することは、とても刺激的だったよ。全てがノンストップで足早に進んできてしまったから、ここ数年一生懸命に積み上げてきたタイトな繋がりが少し解けてしまったような気がしたんだ。最初のアルバム制作フェーズは、何となく自己保存の感覚となり、それはやがて、自分自身のものへとなっていった。そして、関係的孤立主義に陥ると、基本的に、誰かのプロセスによって自分と自分のビジョンが方程式から消え去ることを許すことになる。それは、不一致から来る避けられない結果だ。自分の魂を他人に平伏し、その人を自分の運命や事前にプログラムされた劣化、終焉の師とさせる。そうやって簡単に降伏したことを認めるのは心が痛いけれど、その状態について心を打ち明けるのは、深い慰めでもあった。
「僕らはとても簡単に ‘飼い慣らされる’」と僕は言った。僕が経験していた驚くほど完璧な嵐にも関わらず(感情的な落ち込み、想像していたよりも深刻だった健康の問題、他人の魂なく全てが計画的に進む方向性に反抗できなかったこと、創作において感じていた感情的な悩みを打ち明けられずにいたことなど)、他人を失望させることへの恐れや、意義深い機会を逃すことや、僕らが雇った人を動揺させることへの恐れによって、自分たちの印を完全に逃してしまった。そのほとんどが過去の関係にあった亀裂とその痛々しいスティグマ、終わりのない喧噪、そして自分の傷ついた世界の中で孤立したことによる結果だ。その分厚い絶望の霧を徐々に抜け出すことで、「ノー」、「郷に従えないのなら帰れ」、「もう十分だ」…「終わりだ」と言えるだけの勇気を自然と生むだろうと思った。

長い期間、良いように利用されていたあとに、自分を自由にするのは簡単じゃない。そのトラウマから癒されるだけでも時間がかかるのに、グループなんてさらにだ。そして、昨晩は、正直さが僕らを光のど真ん中へと連れて行った。それは、心が自由になった瞬間ではなく、始まりだ。それは素晴らしい感覚だけど、自分に正直にならなければならない。たとえ、またその一歩を踏み出さなきゃいけないことにがっかりしていてもね。だって、どの”新しい一歩”も、復活力の奇跡であって、それがバンドとしてなら、尚更、そうだから。自分の不安を維持し続けるようなバカバカしい状況を認めるか、目的なく彷徨い続けるかのどちらかだ。一つみんなが同意するものがあるとすれば、それは服従することに嫌気がさしているということ。僕らがみんな教会で出会ったという状況を覚えておいてほしいんだけど、そこでは牧師さんが自分の説教を使って、アーティストとしての僕ら、僕らがやるような音楽、僕らが降伏しているもの、僕らが実演しているもの、すなわち芸術は、間違っているだけでなく、悪魔の所業であると頻繁にリマインドしていたんだ。だから、そういうゴミみたいな宗教に常にさらされているとき、毎週日曜日に恥をかかされ続けるとき、そして、酷い罪を犯していると思わされているとき、本当はそうではないのに(イエス様はそれにアーメンって言うさ!)そのすべては、若い人たちが精神的な視点を広げようとしているのを止めさせようとしているに過ぎない。そういう、独断的な悪意のあるでたらめは、しばらくついて回る。たとえ自分で気づかなくても、自分の精神に影響するんだ…自分で作り上げた正義から思考を解放したと信じたくても、完全にはそうできていない。「ノー」と言いたいときに、すぐさま疑いが滑り込んでくる。

実際、僕らはこの時期のことをあまり話さない。ほとんどタブーな感じでもある。話を持ち出すと、アグレッシブなレスポンスを生むこともある。この時期、僕らはみんな苦しんだんだ。あの牧師が僕の家まできて、さらに恥をかかせようとしたとき、ぶん殴ってやろうかとも思った。それが最後だったんだ。あいつを抹殺する夢もよく見ていたんだ…まったくクリスチャンらしくないよね?でも、僕らがどれだけめちゃくちゃだったか、何故このことを時々、話す方が健康的なのかが、分かると思う。たくさんのことが説明できるんだ。BenとJeffが、僕に目覚めるよう言い聞かせ、全体のプロセスがまったく僕らじゃないって気づかせようとしたときに、何故僕が凍り付いて、消えたのか。介入して、その仮面舞踏会を止めさせるようずっと言っていた。それについて、僕は昨晩バンドに謝ったんだ。もっとすぐに話をすべきだったけど、しなかった。Mikkoにも謝ろうと思ってる。彼は僕が導いたものになり、僕らにとって良いと思うことをしたんだ。彼は素晴らしい人だけど、ただ僕らと合わなかっただけ。僕らはクリエイティブな促進薬を探し求めていたけど、僕は彼を”アートの形を変える人”にさせていたんだ。彼は誠実にアルバムに取り組んでいた…けど、僕はそうじゃなかった。

だから僕は彼との実験をストップして、最初から全てやり直すことにしたんだ。自分の言葉を味わい、曲や僕の旅を味わって、自分のものにするのさ。僕は自分に掛けたいと何度も言ってきた。もしも自分が自分じゃなかったら、それすらできない。正しいか間違っているか、良いか、悪いかではないんだ。それは正直さへと戻り、本当の意味で自分をさらけ出す意思に戻る。それを残りのバンドと話したんだ。アルバムの中で取り扱いたいことや、これまでのプロダクションプロセスのアプローチでは、全く考慮もされなかった要素と一緒にね。だから、これからは、個人的なテーマ、感情、感覚、考えが、クリエイティブな動きの中心となる。それだけでも、最初の悲惨なフェーズに感謝だ。間違った理由でやり続けていても、完全に無駄な時間と労力となっていただろうからね。これが僕らの本当の始まりだ。

新しい創作の航海を通して、自分たちがなりたくないものと、なりたいものの間に、何があるかを見つけないといけない。すでに君たちと誠実にシェアしたものを台無しにすることなく、全てをどうやって改めてイメージしなおすかを。それを僕らはこれから見つけるのさ。良く定義されたフォーミュラに征服されずにいれて、良かったよ。ありがとう、神様!僕らの影の不安が、生き延びるために、常に疑い深い輝きのさらに長い影を求めているなら、僕らの恐れのシャッターを結束の明るい光へと大きく開けるとき、僕らがみんなで見れるものを見つけようじゃないか!