休日 - 終わらない散歩

僕は、休日が好きなんだけれど、それは、いつも諸刃の剣のようなんだ。ちょっとでもスローダウンし始めたら、肉体的にオフバランスになって、数日後には完全にクラッシュしてしまう。だから、レナードが朝6時に起こしてくれたとき(ありがとう、ボーイ!なんてね)今日はちゃんと休もうって決めたんだ。だから、リラックスする美徳についてレナードを説得することはできず、1日中そこら中で眠ることもできない(トライすべきかな)とき、一度、自分のペースを掴むために内側のリズムをチャージしないといけないと思った。だって、ここ2週間がものすごく感情的に激しかったのであれば、それがアルバムの最初のフェーズに過ぎないことも分かっていたからだ…そう、3分の1さ。この先、築き上げていく心のこもった素晴らしい土台が出来上がったのだとしたら、この旅の最も深い本質への理解には程遠い場所にいた。そうするためには、より深みへ向かう追加の探究が必要だろう。特に、数日前にアルバムを通しで聴いてみて、ようやくその精神的なアウトラインが見えてきたところだったから。マッカイを亡くし、叔父を亡くし、僕の親友であり仲間であるStephanieが深刻なほどに体調を崩したのを見ながら、自分自身の健康状態に対処していたから、この旅が終わりからは全く程遠いことは分かっていたし、その長い心の探検の向こう側へと通過できるように、自分が持っていたことにすら気づかなかったものまで、僕の全力を捧げないといけないだろうことは分かっていた。その心と魂の状態は、届かない”場所”であり、僕の精神が定義することは不可能なんだ。それは、旅の終わりに聞こえるかもしれないけど、航海の始まりを意味するんだよ。今現在のチャレンジは、細かな特定のことを除いて、自己懐疑のプロセスにハマらないようにすること。疲れ切った自分が直面する高速の吹雪が、奪おうとしている土地を少しも残すことなく征服するために、僕は進み続けなければ。そして、自分の痛みや疲労を架空の安全な場所に投影せずに、それをやらないといけない。それはすべてを網羅したものであり、そうでなければ、バックグラウンドノイズの装飾にすぎない標準化されたサウンドの上で、無感情に歌われる空虚な言葉の産物になってしまう。僕は死を経験し、人生の取るに足らないものを受け入れるために戻ってきたわけではないんだ…そこに戻るには遠すぎる。
あぁ、そうだった、僕の休日…ハイキングが好きなMikkoは、僕らを”短い”散歩に誘い、川の近くまで行ったんだ。僕らそれぞれの人生経験について話しながらね。”人”としてのMikkoを知れるのは、本当に恵まれているよ。プロデューサーという役目を越えて、彼自身がどんな人物なのかを。彼は、第一印象に抱くよりも、もっとずっとスピリチュアルな人なんだ。僕らが生むアルバムの深い本質を考えれば、それはとても素晴らしいことだよ。アルバムの歌詞にあるエッセンスについて考えるときに、彼と分かち合う時間を取る際に、さらに意味深くなるだろう。どれだけ完璧な”コンポーネント”が、この探究のクルーとして彼らのソウルフルな人生を献身しているかって考えると、素晴らしいよ。これほどまでに決定的な集まりは想像できなかったな。”死”は、僕らが一生手放したくないものを奪うけれど、”生”はいつだって、混乱や落胆の暗闇の中を案内してくれる心の光への新しい視点を与えてくれる。そして、それまでの道で見つけたかもしれない明瞭さを突如、認めるとき、ずっと昔から囲まれてきた数えられないほどの”光”を見て、めまいがするだろう。でも、僕らは一生見捨てられたりしないんだ。たとえ、それに値すると自分で思っていても。
それはそうと、2時間後に家に戻ることができてとても嬉しかった…必ずしも僕らが想像していた、ゆっくりとしたリズミカルな休日の始まりだったわけじゃないけど 😉