…まずは生きなければ

ヘミングウェイの”人生を生きる”ことについての引用について考えながら、目が覚めた。長いこと執着しているトピックだ:真に生きるということ…これは、父がイエスの教えに道を見出す前に、彼が絶えず困惑していた自分の存在への問いに答えを見つけるための燃料となったものでもある。父は穏やかに息を引き取っただけでなく、幸福に満ちていた。”逝く”準備ができていた父を見て安心を覚えた一方で、自分はどうだろうかという問いを残した。目に見えない存在や力へと浸って、創作をしたいという直感は、この父の旅の影響があると思う。「全てに問いを持て」と、父はいつも言っていた。宗教色の強くないクリスチャンとなったあとでも、同じことを言い続けていたよ…人がなぜ絶対的なものを欲しがるか分かる。誰だって宗教的なものを持っているんだ。マントラ、動機、ライフスタイル、とか、呼び方はなんでも。自分を築いていく土台、揺れ動く感情を揺るぎない真実にする土台を必要とするのは人間の本質だ。それは、常に拡張を続けている宇宙の広さに直面する僕らの小さな存在に意味を持たせるよう設計する方法。僕にも絶対的なものがある。痛み、悲しみ、苦しみと亡霊は、僕の人生を通して忠実なお供であり、また、自分の居場所を探したり、過去のスティグマから自由になる方法を見つけたり、失敗への恐れから精神を解放する感情的な要素もそうだ。僕はむしろヴィーガンやヨガマスターになりたい。それは、僕の存在を安定させるためのより安全な土壌のように思える。僕のは少し厄介なんだろうな。常に考え込みすぎるから…まるで機能性の高いアルコール依存症みたい。病院で脳のトラウマについて言われたのも不思議じゃない…今じゃそればっかり考えてる。一つ確かなのは、”脳を休ませてあげて”という、先生たちのアドバイスを全然守れていないってこと。正反対だ。でも、僕はこうやって生きてきたから。子供の頃の第一声は「待って、それは本当に…?」だったかもしれない 😉

生きること…なんていう探究なんだ。前日の投稿で載せた本は2016年にBenがくれたプレゼントなんだ。正確には2016年の3月19日だよ。その時から、どこへ行くにもこのノートを持ち歩いてるのに、ラッピングカバーを取ったのはつい最近なんだって知ったら、より混乱するだろうね。あらゆるノート、モレスキン、ノートパッドや、日々使っている様々なジャーナルの中で、これだけは使われないまま、ラッピングもされたままで残されていた。それについて今、考えてみて、あるセオリーを思いついたんだ。僕がどれだけクレイジーで神経質かを認めるのを避けるために作ったセオリーかもしれないけど、それでもなお、言葉に関連することにおいては、辻褄が合う。僕の非科学的論文はこうだ:他のノートには、言葉を思うままに書き綴ることを恐れたり、ためらったりしない。けど、人生について”正式”に言葉を書こうとする時、急に自意識が芽生える。まるで、正しく、完璧で、非の打ち所がない、僕という人間が存在することへの見方や理解を書いた神聖な本であるべきかのように。明日どんな人間になるか分からないけれど、今日の僕へと導いた旅の物語を集めたワクワクするようなものではなく、まるで人生をまとめた最後の方程式かのように。それについて考えなきゃいけないのもすごく変だよ。特にこういうノートこそ、僕のいつもの疑問や考えや不条理な滑稽さでいっぱいになっているはずなのに。そういうのがいくつもある。それが人生ってもんさ。そういうのを生まれてから何百回も生きた。以前ほど、話術が上手くなくなってしまったようだ…

僕が執着し続けている唯一の”なぜ”へと戻ると…毎秒、考えすぎることなしに生きるのを、なぜこんなにも怖がっているのか?悩ましいよ…そして、セラピストの友人たちはみんな僕を診たがるんだ。同じ場所をグルグルと回っている僕との長期間に渡るセッションで高額を稼げるだろうからね。「続けて、Alex。とても興味深いし、これまでの100年間、週に4回通ってくれているおかげで、とても儲かっているよ」ってね。全く…