ジャーナル: From A Stranger To Another

僕らは昼食を一緒に食べていない。自分一人の時間を取った方が、創作の面では健康だと思ったんだ。音楽、文学や、社会的、人間的問題など全く違う事柄について考えられる…そうすれば、みんなで集まったときにも話題を提供できるし…音色にも違う意味を与えられる…それはバンドメンバーにとっても同じなんだ…このプロセスに大きな価値をおいているよ…自分たちが飛び込む芸術のまた別の側面を探究させてくれるから、それによって、僕らの会話はより豊かで刺激的になるんだ。音を鳴らさずとも、ユニークな交流への心のトーンをセッティングするのさ…それはもう独自の思考の旅を通して、既に始まっている…


だからこそ、短い休憩のあと、スタジオのコントロール室にみんなが戻ってきたとき、心や感情の抑制を強く感じたことに驚いた。僕は知らなかったんだけど、ジャーナル“創造的人生の流れ”が公開されたらしく、昼食時にみんな読んだらしい…僕が公開するものに対してコメントしたりするのは稀だから、特に最近公開したような個人的な文章のときは、たいていメールとかチャットで話すんだ…それは自分を守るための対処法なんだよ。より親密な方法で激しい話題をプロセスできるようにね。少なくとも、僕にとってはそうなんだ。書くことで、話すときにはできない形で心と魂の扉を開くことができる…それは勇気や自信の無さの表れかもしれないし、ちゃんと自分を表現できないかもとか、またはシンプルにまだ破りたくないヴェールなのかもしれない…まぁ、心理的な診断は僕には分からない…他の人に聞いた方が早いかも 😉


午後は”創造的人生の流れ”が僕らに伝えた、弱さが持つ儚い感情によって定義されていた…それは恵として訪れたよ…少なくとも数日前に本部のスタジオに到着したあとすぐに開いたバンドミーティングで僕が強く主張した:“アルバムは自分の心地良いゾーンをどれだけ越えたいか、その意思から形づけられる”ということの明らかなリマインダーだった。僕にとって、みんなで一緒にいながら、こういう感情的な問題に向き合って居心地悪くなるのは、自分の創作の境界線を広げるために必要な心の状態を完璧に映し出してる。たとえそれが僕の話したいこと、または話したくないことでも…特にマッカイのことに関してはね。