次々と行われる葬儀
今日はとても辛い日だった。ハイスクール時代の親友のお母さんが亡くなったから、そのお葬式に参加してきたんだ。僕にとって、第2のお母さんのような存在の人だった。集会場に昔の写真をスライドショーで表示するディスプレイがあって、眠っていた思い出が蘇るようだった。時が止まったままのものが、人生の流れを越えて、僕らの一部になるのは興味深いことだ。それについてのまた別の例は、エゴや自己検証を越えてつくられたアート作品。そのように、僕らの存在の流れは進んでいく瞬間から構成されている…古い友人と会うと、そんな風に感じるよ。彼らの愛する人々や子どもに会って、クレイジーなナンセンスに満ちた昔の日々についてみんなで笑うときにはね。人が十代の時に思い描いた未来を実際に達成しているかどうかについて、あまり気にしたことはないけど、その人が普段囲まれている素晴らしい物事に今でも感銘を受けるかどうかには、興味があるんだ。だって、幸せはそこにあると思うからね。社会的地位とか会社でのポジションじゃなくて。ゴールが自分の心の場所についてである時、印を見逃す事はないよ。ナイーブな視点かもしれないけど、シニカルよりもナイーブの方がいい。