壮大な感じの別れ

今朝はパッキングが全てだった。移動する前の夜は、いつもあまり眠れないんだ。眠れたことがないんだよね。毎日移動してばかりの長期ツアーに出るのが僕にとって、どんな感じか想像できると思う。ツアーバスはあまり好きじゃなくて。普段から睡眠が浅いから、常に動いているバスの中だと、あまり休めないんだよ。特に他10人と一緒に狭いバンクベッドで寝るときには。だから、ホテルでの宿泊の方が好きなんだ。たとえ、そのために毎朝とっても早く起きないといけなくても、数時間は自分のスペースを持つことができる。人生にはもっと酷いことがあるのは分かってるし、別に文句を言うつもりもないけど、僕の特異なライフスタイルについて思いを巡らしているのさ。あと5〜6週間したら、フルスウィングで始まるからね。パッキングして、アンパッキングして、それを何度も繰り返す。でも、大好きだよ 🙂 ほらね、僕の複数のパーソナリティは手術後に突然始まったんじゃないんだ。それ以前から存在していたのさ。でも、今朝のパッキングは少し違うものだった。それが何故なのか、自分でも分からないんだけど。まるで、肉体的にも感情的にも、ここに来る必要があったかのような。僕の精神に大きな意味を与えたように感じるよ…

実際、ここに着いたときは、少し困惑していて、迷っていて、今作っているアルバムのプロダクションに関して、何かがずれているような、そんな感情を抱いていたんだ。僕の心はまるで、そもそも、何で自分がそれを写真におさめたかったのか、撮影したものがはっきりと浮かび上がるのを待っているポラロイド写真のようだった。僕の場合、写真を浮かび上がらせる薬品の役目をしてくれたのが、高い波であり、暖かい風であり、毎日の瞑想であり、Jeffとのインスピレーションに溢れた会話だった。その結果は疑いようがないくらいはっきりしていたよ。そして、自分が見たものが嫌いであれば、それは様々なことを心強くしてくれた。僕は理由もなく”困惑”していたわけじゃなかったんだ。潜在的な失敗へや、”成功”に関連した不安からくるコントロールできない恐れなどではなかった。それは、僕が書ける複雑な説明よりも、もっとシンプルだったんだ。僕を知ってるでしょ?複雑に書こうと思えば、余裕で書ける! 🙂 けど、そうじゃなくて、とてもはっきりしていたんだ。それは僕じゃなかったんだよ。それに気づいたんだ。それは簡単そうに聞こえるかもしれないけど、僕にとってはそんなに簡単ではなくて…。だから、思いっきり違う方向に走っていたんだっていうのを認めるのが難しかった。けど、そうできたのは、良いことだと思う。
それと、Jeffとこうしてじっくり話し合うのも久しぶりだったから、それをどれだけ欲していたかにも気づいた。昨年から、毎日がとても悩ましいもので、お互いにあまり会っていなかったんだ。以前のようにね。だから、こうして、何でも話せる親友であり、仲間であるJeffと再び繋がれた機会は、素晴らしいものだった。ここ最近、一緒にする旅は、ほとんどがビジネスマネジメントに関することだったから。今回はそれとは全く違ったんだ。僕らのデイリールーティーンはこうだよ:午前7時前に目覚めて、コーヒーを頼んで、僕が”海の隣のオフィス”と呼んでいる場所に行く。しばらく海を眺めながら、物思いにふけり、スタジオ日記を書き始める。Jeffが少しあとに合流し、彼自身のフォローアップなどをして、本を読む。そうして、浜辺を長い時間散歩して、1日1万歩の目標を達成する。残りの時間は、お互いが読んだ本や、考えたことや、聴いた曲などに彩られるんだ…主に芸術と啓蒙系の話。周りの人たちは、1日中、イエス様の話から、レナード・コーエン、ポール・ボウルズ、アルバート・カミュ、アレン・ギンズバーグ、フランシス・ベーコン、マイケル・ジラ、グレン・ブランカまで色々なことを話す僕らを見て、面白がっていた。ある女性からは「聖書の一節を引用したあとに、ビートジェネレーションや作家について話しながら、恵みだとか、熟考だとか、クソくらえだとかファ**っていう言葉を同時に使う人たちを見たの初めてよ。あなたたちはすごく面白いわ」と言われたよ🙂

Jeffは『Conform To Deform』という本を読んでいた。マネジメント&レーベル会社“Some Bizarre”の信じられない話や音楽の歴史に残るような話を集めた本で、少し前に僕がJeffにプレゼントしたんだ。どうやって、Nick Caveが登場したか、Swans、Cabaret Voltaire、Coil、Einstürzende Neubauten、The The、Lydia Lunchなど、様々なアーティストが、彼らの時代に起きた音楽の商業化を生き延びなかったものの、”ありのまま”でいることを恐れなかった彼らが作ったカルチャーによって、後世のアーティストたちに多大な影響を与えた、ということについて書かれている本なんだ。だから、毎回、長時間の浜辺の散歩にでるときに、その前衛的な態度と社会に属さないキャラクターたちの不気味なコミュニティについて話して、それが僕にとっての目覚めとなり、僕らにとっての行動喚起となったんだ。なぜなら、スティーヴォ・ピアースの狂ったようなふざけた行為を超えて、残るものは芸術、そして自分の根性と本能に従うこととすべて関係しているから。だからこそ、僕はクソとかファ**とかの言葉を使っているんだろうな。ある時点で、僕はジェフに向かってこう言ったんだ:「僕は何をしていたんだろう?死、悲しみ、絶望を生き抜くことについて、僕は取るに足らないばかばかしいポップソングのフォーマットで歌っていたんだ!」Jeffは僕が自分自身に反抗しているのを見て笑っていたよ。そのあと僕はおそらくいくつかの聖書の一節とカミュを引用した…🙂

心の麻痺から目覚めるよりも重要なことがあるなら、徐々に活力を感じ始めてきたことかな。今でもとてもダメージを受けているけど、感情的な視力と認知能力は、僕自身と連なってきている。”意識”を取り戻し始めただけでなく、これからどんな自分になりたいかを決められるから、とても励みになるよ…明らかな自分の制限に基づいたものじゃなくて、僕の“意識”が決められる範囲でね。それを僕はここで経験し、海の中へ置いてきたんだ…その順応性と安心感の痕跡であるだけでなく、深い感謝の念、ある種の肯定的な洗礼、あるいは僕の臨死体験とまだ混乱している新しい自分を示す期限切れの一節でもある。いつ戻るのか分からないまま、ここで数日過ごせたのは、とても重要なことだったよ。自分が学んだことは、人生において、自分がコントロールできるものなんて、あまりないってこと。そうできたらと願うけど、そうできないんだ。自分が結果に対して、立ち位置を決められるだけで、最後に降り立つのがどこか、誰にも分からない。僕らの存在は、ますます大きくなる水域のようなものであり、その中で僕らは完全に自由な種類の予測不可能な動きに進化し、反抗的な精神の意志を打ち砕く適合性の世界の容赦ない重力から解放される、ということを受け入れるのは良いことではないだろうか?少なくとも、それが僕の見方であり、僕がそれをどのように生きるかを選択する方法だ。僕はそれと共にメキシコを後にする。ある種の壮大な別れ…また次回まで。
そして、深刻な燃え尽き症候群と闘っている大切な友人に書いたように:

“毎日、光の中で過ごすことは素晴らしい勝利だけど、自由と解放の心で生きる瞬間こそが、僕らの精神にとっての勝利であり、魂にとっての安らぎだよ。君は僕にとって、強い決意の模範だ。君の戦いは僕の戦いでもあり、君の意思は美しいまでに感銘的だよ。それを分かち合ってくれて、どうもありがとう!!!”

メモ:今朝、ホテルを出る前に、メキシカンママに別れを言いに行ってきたんだ。僕を見てとっても喜んでいて、感謝を伝えるためだけに、会いにきてくれたことに、驚いていた。彼女のおかげで、僕の滞在が素晴らしくなったこと、そして、僕のスペイン語の能力に忍耐強く親切に接してくれて、ありがとう、と言った。お互い笑って、ハグとキスをした。この瞬間だけでも、ここに来たかいがあったと言えるよ。