手を伸ばす - 時間を圧倒する

僕は、夜遅くにバンドのスタジオ本部に戻ってきた。メキシコからモントリオールまで、一際、長く感じた移動で疲れていたけれど、気分は良かった。こういう移動の日は、どうしてもオフバランスに感じるから、嫌いなんだ。そして、自分のコンディションについて悟りを得たかのような経験をしたから、今回は特にメキシコを離れるのが、センチメンタルに感じたとしてもおかしくなかった。だから、ここ数日でどっぷりと物思いに浸ることから得た個人的な幸せと、自分の毎日の流れに再び戻ることの間に立つのは、気分が落ち込む原因にもなれた。でも、全くそんなことなかったんだ…反対に、それまでの数週間で対処していた、しつこい疑いと不確かさが、完全に消えて、全てがよりはっきりと見えたんだ。
海の近くで過ごした時間は、僕の心を癒し、復活させてくれた。それについて、飛行機に乗っていたときも、ずっと考え続けていたんだ。それで気づいたのが、僕が一番恐れていることが、他人を失望させることであることに気づいたんだ。それによって、他人が僕を利用したり、利益を得る結果へと繋がった。でも何となく、最近自分が失望させていたのは、他ならない自分自身だったと気づいたんだ。明らかに自分じゃないアルバムに取り組んでいたことや、僕のプロセスを全く無視して制作されたことや、僕の愛するマッカイの死、行方が分からない叔父さんの遺灰、大切な友人の病気…その他にも認めたくない以上にたくさんあるだろう。僕は文字通り、怒り狂っていただろう…けれど、そうじゃなかったんだ。僕はただそれを心の内に閉じ込めた。自分は大丈夫だと言い続けながら。深く心が引き裂かれたかのような、感情的に萎縮し、完全に打ちのめされていた状態のときに、大丈夫、全てうまく行っていると言ってね。それが、究極的な僕自身の失望だったよ…

僕は、戦って、押し続けて、戦って、打ちのめされて、立ち上がって、反撃する…という家庭で育った。だから、何でもないフリをする方が痛みが少ないと信じることを学んできたんだ。パンチを受けて、そうして進む。苦しみやダメージを認めて、誰かにケアされることを許し、新たに始められるように愛と癒しを迎え入れるよりも。そうではなく、ただ進み続ける。押し続けて、押し続けて、もう一歩も前に進めないくらいボロボロになるまでそうする。そうして、さらに難しいチャレンジが来るんだ。 肉体的なものじゃなくて精神的で感情的なものが…自分自身について考え、自分がどこへ向かっていたのか考え、喜んで自分を壊そうとしていたものが、何故そんなにも大事だったのか考える。その価値があっただろうか?正直に答えるべき質問だよ。そうする準備ができるまで、全て変わらないんだ。できるだけ早く自分の足で立ち上がり、戦えるようになりたい…そうしてまた、打ちのめされ、ボロボロになり、完全に希望を失くして、もう1日生きる気力さえ失くしてしまうんだ。そして、本物の”戦い”は、自分の目的や意味を信じる心を修復することになる。でも、それよりも、許しについて…他人を、自分を許すことについて。だって、他人や自分に課した惨めさが闘う価値のないものなら、再び人生を生きるチャンスを超えられない。その後、何度失敗したとしても、”愛”はいつだって、闘う価値のあったものはいつだって”自分”だったんだと気づく…そこにはもはや”次へ進む”という概念はないんだ。初めからやり直すのさ…もしかしたら、何度も、何度も。自分が自分になれるまで、もしかしたら、それを何度も経験するかもしれない。それが自分にとって、何を意味していても…
道を見失ったり、役立たずだと感じたり、混乱したり、目的を失ったり、疲れたり、価値がないと感じたり、失敗作だと感じたり、みんなの失望になっていると感じるのを自分で認めるのは難しいんだよ。本当にさ。僕は知ってる。アルバムを何枚出したって、9万人の前で演奏したって、たくさんの人から称賛されたって、複数の人から愛されたとしても…自分が周りにとって大きな失望のように感じる…空っぽで、麻痺した感覚になるんだ。本物の笑顔を作ることを学んで、それでも、この世から消えてしまいたいって思わない夜はないし、まだ生きていることを恥に思わない朝はない。心と魂の問題に魔法で対処できたらいいのに…魔法の薬、魔法のハグ、魔法の飲み物、その他なんでも簡単な魔法。でも、魔法も簡単な方法もないって、みんな知ってる…そして、もしも魔法や簡単な方法で解決するようなものなら、そんなうまい話はないと疑うだけでなく、トライしようとする人たちに対して批判的になるだろう。僕はそうだと思うし…そうだった。そして、今もそうだ。「時間をかけなさい」とか「あなたには時間が必要なのよ」とか「時間が解決してくれる」とかそういう言葉に対して、僕は:「時間は僕の味方でないだけでなく、時間は僕の魂にとっての敵だ。一瞬たりともその亀裂が直ることはない」って思う。もしも、それが色々な意味で真実ならば、自分の時間を圧倒できる力が自分にはあると信じ始めるとき、自分の時間を管理するのは自分の役目であると受け入れたとき、その全てを乗り越えられると気づいたんだ。君自身が時間を定義し、再定義するまで、時間は何もしてくれないよ…だから、君こそが時間なんだ。

まるで癌の治療薬を中国の占いの中や、自分の存在の土台をゴシップ雑誌の星占いに見つけようとしているように感じるかもしれない…もしかしたら、そうかもしれないけど、僕のポイントとしては、自分がどれだけ悪く感じていても、どれだけ僕らがめちゃくちゃだと思っていても、どれだけ人生に絶望していても、それが運命ではなく、一時的なものだと分かるのに、ビーチも、メキシコも、マイクへの叫びも、嘆きを歌う詩も必要ないってこと。その状態を定義するのが難しいのと同じくらい(僕の場合は10年以上続いた)力に満ちた解放は自分の手の中にあるんだ。そして、もしも、そう感じないとしても、良い知らせは、愛する人たちや、友人、同僚、学生時代の仲間やオンラインでの友人たちを通して、見つけることができるってこと。心を打ち明けるのは怖いことだ。それを打ち明けられた方もね。そこに魔法はなく、あるのは”開かれた腕”だけ。それが、時間を圧倒し、僕らが対処する状況を圧倒する力になるんだ。少なくとも、数年前、そうやって僕はゆっくりと自分の心の通りを抜け出した。それは僕の勇気でも、ステータスでも、お金でも、何でもなかった…僕の方に差し出された”手”を見たんだ…来る日も、来る日も。そして、その手を軽く握るチャンスを掴むことにしたとき、躊躇して、再び放棄されるのではないかと恐れながら、その愛に満ちた”手”が、光と闇の端まで、恵みと心遣いで僕を導いてくれた。その一歩を踏み出すのは僕の意思であったけど、それまでに僕らが一緒に歩んだ一歩によって、心配する必要はないと確信できた。僕は、閉じたまぶたの中で燭台の暖かさを感じるという苦悩を抱えていたけど、一瞬、あるいはもう少し長い時間を要して…僕はその一歩を踏み出し、全てを最初からやり直し始めたんだ。

これについて書いてるのは、薬や宗教や哲学やスピリチュアルなコンセプトについての僕自身の位置や意見とは何の関係もないよ。もう長いこと、日常を通して、君たちと分かち合う素晴らしい特権を得ているからなんだ。今現在、辛い日々を過ごしている人がいるのを知っているし、いつ崩れ落ちても不思議ではない状態にある人たちがいることも分かってる。僕の心はそういう人たちと共にあるよ。停止は停滞ではないんだ。止まっても良いし、深呼吸する時間をとっても構わない…それこそ、自分の時間を”コントロール”し、”圧倒する”ということさ。それをメキシコでやったんだ。時間、自分の時間について考えた。それによって、大事な決断をすることができたのさ。以前なら想像する勇気すらなかったことであり、僕にとって重大な影響を与えるもの。それは、僕の友人や仲間たちの人生にも深刻に影響する。毎朝、自分自身に”かける”決断への恐れが減るものではないけれど、自分は一人ではないと知ること、それが自分の中の勇気を育てていくんだ。そして、君こそが僕にとっての日々の”手”であるならば、僕も君にとってそうであることを願う…僕の不完全で、変な方法で、人生だけが創れるように。

みんなからのたくさんの贈り物、手紙、ポストカードをどうもありがとう。君の寛容な心をどうもありがとう。君は言葉で説明できる以上に、大切な存在だよ!!!

人生!人生!人生!!!