孤独な惨めさから共通した自由へ

今日は午後に、あまり気分が優れないように見えたMomokaと良い会話をしたんだ。心配事を自分一人で抱え込むとき、そこから動けなくなって窒息しそうになるのは、なんて惨めだろうか、ということについて話した。結局、心を打ち明けることで、闇を照らす光を見つけることができ、そんな悩ましい考えを状況に入れて考え、または本当の心の解決へと導く視点を得ることができる。自分の心の闇へと深く深く入っていき、それが個人的な悪夢のループと化すとき、そういう視点を得るのは無理なんだ。それはとても心を打つ会話で、誰もアクセスできないところまで、自分が今でも強くしがみついているかもしれないものは何だろうと考えた。解放的な自由から自分を遠ざけるもの、心の表現を開花できず、感情的に乾いた土地となり、ずっと昔には自分の土から色々なものが育ったんだと信じることさえできないくらいに不毛になっているものとは。

この時の会話が今夜、録音されるなんて想像すらしなかったよ。録音されたのは、僕らの言葉でも、僕らの会話の一部でもなくて、その解放的な心の証。僕らが取り組んでいた曲の一部を表現するためにスタジオに来てくれないかとMomokaに頼んだあと、そこに現れたのは全く新しい人物だった。精神的にね。何か肩の重荷を下ろしたみたいな。彼女が経験していたことを別のアングルから受け入れることにしたかのような。それは嘘を付けない。特にコントロールルームの真ん中に立って、バンドメンバーたちが見ている中で、唯一のガイダンスが:「雰囲気へと身を任せて、曲が導いてくれるから、その感情へと自分を持っていけば大丈夫。僕らのことは忘れて、自分がスタジオにいることも忘れて、シンプルに自分の心の中に存在するんだ」という時。分かるでしょ、とてもクリアで簡単なもの。そして、彼女はそうしたんだ。それは”これ”だった。純粋に身を委ねたものとしての”これ”。そこに正しいも、間違いも、良いも、悪いもない。僕のパフォーマンスとは関係ないんだ。なぜなら、全ては何故それをするのかについてだから。認められるために、どうやるべきかよりも。本当の芸術は形を作り、それをまた変えていくこと。商業化できるかどうかでも、”大きな成功への道”のパラメーターに適切かとは、全く関係ない。そして、今日、Momokaはそれを体現した。彼女自身が曲だった。正直な心が自己解放へと導く鮮やかな描写。とても疲れるけど、素晴らしく自由なんだ。