何故あなたはそんなに“ファン”と近いんですか?!

僕は今フランクフルトの中心にあるホテルのロビーにいる。朝の9時だよ。疲れ過ぎて時差ボケにすらならない…!僕はちょうどインタビューを終えたところなんだけど、興味深いことにその記者の焦点は、僕の「ファン」との独特で逆流的な関係と呼んだものについてだった。僕は、彼に「ファン」という軽蔑的な表現を「友人」や「人々」や「コミュニティ」に変えるべきだと主張し続けたよ。僕がみんなのことをどう見ているかが、彼のポイントを証明してると笑っていた。どういうことかっていうと、僕が君たちと一般的なファン&アーティストの関係を築いていないということ。でも、僕のポイントは、君へのリスペクトと、平等に基づいた交流を築くことの大切さについて。それがあってこそ、お互いを受け入れることができるし、だからこそ、不完全な素晴らしさを楽しむことができるんだ。僕らが賞賛と狂信で自分自身を養うと、それは誰もが見せかけのゲームをすることを非難し、他の人を喜ばせるために、特定の方法で見ることを人々に強制し、コミュニケーションを通じて誠実な自由を確立する可能性を台無しにする。自分たちに対するヒーローの不誠実さに傷ついた「ファン」をあまりにも多く見てきた。僕は、誠実で他人を思いやりたいと思っている。

この会話は僕がフランクフルトにいることから始まったんだ。アーティストがカナダからドイツまで飛んで、地元で荷物を発送することによって、”ファン”が余分な税金や送料を払うのを避けるというナンセンスについて。僕は笑ったよ。確かにレアなシチュエーションだろうからね。また、そうやってエクストラマイル努力する決断の裏にある理由を話す良い機会にもなった。だって、これは彼らのサポートに対する僕なりの感謝のジェスチャーだから。また、ヨーロッパの経済的状況を考慮してのことでもあった。注文に加えるプレゼントについて話し、手書きのレターが今やオーディオメッセージに変わったこと、そうすることができるのが、どれだけ特権的であるかについても話したんだ。独立したDIYアーティストだからこそ、こういう風にフレキシブルにできる。アートを商品化したくはないんだ。僕は心、考え、精神を開いてくれる人となら誰とでも繋がりたいと思っているアーティストだよ。まるで一軒一軒訪問する感じ。販売セールスのピッチを超えて、個人的な時間を分かち合いたいと願いながら。他人の物語や視点に気を配ることで、僕はとても成長した。それは僕なりにお礼をする意味があるんだ。
最近アーティストが提供するVIPパッケージについても話したよ。その反対に僕は無料で色々なものをあげているから。僕は儲かるマーケットにタップしていないってね。2分だけ一緒に写真を撮るのにかなり高額な値段を要求しているアーティストについても考えを話した。僕はライブ後に”ファン”と一緒に何時間も過ごすことについて言及しながらね。こういう質問が正当なら、僕の答えはいつだって同じだ:他のアーティストの決断を僕がとやかく言う権利はないよ。たとえ、それが僕とは違う考えであってもね。経済モデルを理解してはいるんだ。アルバムはどんどん売れなくなってる。ストリーミングはバカバカしいほどに低い報酬しか払っていない。(払う時があるならね)けれど、ツアーするコストは高騰し続けている。収入の側面で考えれば理にかなっているけれど、僕がプロジェクトを作りたいと思うまさにその理由であり、ツアーをしたいと思うその理由である人たちに、さらにお金を要求するのが心地悪いんだ。そして、この冒険が成長していく中で、ゆくゆくはみんなと顔を会わせて時間を過ごすことが不可能になってくるのかもしれない。それでも、繋がりを続ける方法は他にあると信じている。けど、それも僕個人の見解さ。

ミート&グリートについても聞かれたんだ。”ファン”がガッカリしないようにするのは難しいか。というのも、”ファン”は非現実的な期待を抱くことが多いから。それは僕も、よく心配していることだよ。「僕は大丈夫だったかな?みんな楽しんでくれたかな?」ってね。常に一緒にツアーしてるバンドメンバーやクルーたちに聞いて回ってる。全員を喜ばすのが無理なことを知ってる。だからこそ、僕らがミート&グリートをする方法が好きなんだ。オープンなのさ。ただ、コーヒーを飲むとか、夕食をするって言って、もしも誰か近くにいれば、おいでって誘うんだ。告知も結構ギリギリにしてる。僕に会うためだけに、遠くから高い交通費を払って会いにきてくれる人たちへのフェイルセーフさ。お金で買えない価値のあるものは、一緒に集まっている時間。その場所がどれだけクールかとか、メニューが最高だとか、お洒落なエリアだとか、そういうのは気にしない。大事なのはいつだって”僕ら”。そして、みんなの大きな期待に応えるのが不可能であるとき、できる限り自分の百パーセントを出す。フォーカスは”僕ら”のまま。自分の状況がどうであれね。みんなのことを知れる素晴らしい機会でもあるんだ。それこそが僕にとって大切なこと。
「あなたのワンダーランドにおける”醜い”体験はありますか?」と彼は聞いた。その質問に僕は笑ったよ。もちろん、あるさ。人間だもん。人をありのままで受け入れるとき、彼らが背負っている人生の袋も受け入れるということなんだ。時に、それは重くて、緊迫している。だって、人生がそうだから。人は一つの理由や複数の理由で、僕にガッカリするかもしれない。僕が他の人たちと時間を過ごしすぎるとか、自分の時間は短過ぎたとか、彼らが想像したほど、僕が親密に物事を共有してくれなかったとか、僕がその夜の支払いを全員分してくれなかったとか。僕があれやそれをくれなかった、とか、これじゃなくて、あれを提供すべきだった、とかさ。みんなやっぱり期待するから、理由は様々だよ。そして、時に、僕も彼らと同じように、不完全なんだってことを受け入れられない人もいる。僕が与えることのできないものを彼らは欲しているんだ。だけど、彼らが感謝をせず、不満足で、欲しがりだってこと、だけじゃないと理解してるんだ。時に、こういう集まりが、暗くて陰った日々の唯一の明るい光だったりするんだと思う。昔は人をがっかりさせることに深く影響を受けていたけれど、今は少し禅になったかな。なにかあったときには対処するし、理由を知るために、その人に手を伸ばそうとする。みんなとても優しいよ。これまで醜いものとは対処しなくて済んでいるし、Your Favorite Enemiesのフロントマンをしていたときに直面したようなカオスに近いものは今のところない。あれはまた別の時代だったんだ。あの時は、かなりまいったね! 🙂

記者は、過度な”ファン”と関係を切らないといけなかったことはあるかと聞いた。また、関係に少し距離を置いたり、一時停止したり。それはとても稀だし、たいていは、自分のスペースを守るためというよりも、その人のためなんだけど、時に、人はとてもラフな時期を過ごしていて、それを全部僕にぶつけてくることがある。僕はそれも受け止めるよ。一線を超えない限りね。そうなると、僕は自分のリミットを作って、少し距離を保つほかなくなる。そういう人はしばらくすると戻ってきて、また友人になってくれないかと聞くから、その時はもちろん歓迎するよ。それが人生だ。それが人間だ。僕もきっと誰かを傷つけただろう。でも、それが人間関係だ。リスペクトを持って他人と接する限り、良いバランスを見つけることができる。僕は人を許すし、自分が何か間違ったことをしたときには、躊躇いなく許しをこう。自分のオーディエンスと関係を保つのが”仕事”だからっていう理由で、交流するように強制したことはない。それは僕の仕事の一部じゃないんだ。僕にとっては違うよ。アートとしての人間の形から、素晴らしい”魔法”が訪れ…人との関係は、その延長線なのさ。そうやって考えてるよ。

僕の知名度などが上がってきているからこそ、他の成功しているアーティストについて言及したように、”ファン”との近接感をどうやって保っていこうと考えているか、という質問で締め括った。それについて今の時点で答えるのは無理だと思う。別の方法が自然と現れるんじゃないかと思っているよ。僕らが人生、アート、人間性と友情の素晴らしい旅を維持して続けていきたいと思い続ける限り。僕らのユニークで不完全だけど、正直で、満たされたタイプの関係に敬意を示すために、今現在のファン&アーティストの繋がりの一般的な流れに反対し続けるのさ…それが僕の願いかな!!!