『Kimiyo』:淀んだ流れの先にある自由

僕が命を吹き込んだすべての創造的なプロジェクトの中で、『Kimiyo』は、僕の心の中で特別な場所を占めている。長年、コラボレーターのMomokaや、忠実な仲間であるBenと一緒にソウルフルでアーティスティックな作品を作りたいと思っていただけでなく、この作品が生まれた状況が、その儚さと力強い本質を確かなものにしているから。心臓手術のあと、自分の声を使うことができず、楽器を弾くこともできず、体が脆弱すぎて、いつもの熱い情熱をもたらすことができなかった。僕は、このプロジェクトのパワフルな創造者や高揚感をもたらす底流の原動力にはなれないことを受け入れなければならなかった。それはまた、僕が自分のもののように感じているものを完全に手放して、旅のダイナミックなアイデンティティに、内なるバランスを完全に明け渡し、消耗するフラストレーションを音の感覚に完全に放棄し、戦う代わりに自分の否定できない脆弱性を受け入れる必要があることを意味したんだ。そうするのは、とても難しかったよ。それが自分の健康状態の身体的および認知的不安定さにおいて、ほんの一部であるとしても、それを認めるのは耐えられなかった。最初の執筆セッションの 1 か月前には、死にそうだったよ…耐えるどころか、対処する準備もできていない状況に陥っていたんだ。

自分を囲む詳細に気を配り始めたときに(音や声の抑揚、些細なノイズなど)そのソウルフルな要素のカケラがゆっくりと、僕の抑制されたフロンティアや、ぼやけた視点の根源であると強く信じた感情の疑いに満ちた構成に挑み始めたんだ。その反抗が僕に明瞭さを与え、心の平穏も与えてくれた。音楽が自分の中で振動していったんだ。言葉には3次元の感覚があった。目を閉じながら、音を聴くと、僕には色や光が見えたんだ。身体的な制限として認識していたものが、感覚の解放の祝福になるまで、震えはスピリチュアルなものだった。僕は流れと一体となった。一音から別の音へと重力なく連れていかれ、まるで自分の体を離脱しているかのような感覚で自由を感じた…同調し、動きのトレッドの間を、流動的に浮遊し​​ている感覚だった。心が高まるような感覚…僕はそれを受け入れ、反応を示した。感情が浮遊するように。これまで、創作のプロセスにおいてこれほど複雑に「意識」したことを覚えていない。僕の、いわゆる限界が、究極の自由となったんだ。

ヴァージニアの自宅でプロジェクトを創作したことは、僕の解放に大きな手助けをしてくれたし、その真髄を具現化する手助けとなった。全てに命が吹き込まれた僕のホームスタジオでは、素晴らしい山の野生動物と絡み合っているんだ。鳥の鳴き声、風に乗って踊る葉っぱ、夜の合唱団、軽い雨、嵐と雷…その全てが含まれているんだ。ギターのレイヤーの間や、オーケストラ的な音の集まりの間や、ヴォーカルの間にね。アルバムに命の進化する側面を与え、時間自体を超越する生命の発展し続ける旅が、実在的にも、精神的にも存在してるんだ。それは鮮やかに開花する復活を描写し、普遍的に経験されていると同時に、親密に解放している心と魂の状態を描写している。
だから僕にとって『Kimiyo』は、Momokaの声でも、Benと僕の音楽でもなく、プロジェクトですらなく、みんなの物語なんだ。何かを求める心を持つ限り、世界的であり、個人的でもあるもの。それは心の巡礼であり、よく知られている献身的な安全を手放して、停滞した幻想の流れの終わりに到達し、恐れている自由を新たに手に入れようとしている人のために設計された旅の動き。

だからこそ、僕が取り組むすべての真剣な旅には、それが本であれ、アルバムであれ、コレクター向けの旋盤カット・レコードであれ、短編映画であれ、さまざまな要素が含まれているけれど、その中でも、それを自分のものにしてみようという招待が、僕にとって常に爽快なんだ。それが君のもの、僕のもの、僕たちのものになったあと、瞑想的で内省的な感覚を共有するときに、君はそれについてさらに多くのことを僕に発見させてくれる。それが僕を本当に元気づけるものだよ。それは無制限の解放へのプロセスさ。

『Kimiyo』の世界をここから見てみてね。