肉体的な血筋と永遠に続く精神性…人生の驚異

(2019年10月、未発表のMV撮影のために向かったゴールウェイ近郊のビーチで撮影された写真)
多くの人と同じように、僕は壊れて機能していないタイプの大きな家族の中で育った。僕の両親はできるだけ、その環境から僕を守ろうとしてくれていたよ。それにも関わらず、僕はすぐに、継続し続け、かつ増大し続ける内部の悪意の対象となって、それに直面することが、彼らにとって、どれほど有害であるかに気づいた。子供心に世界への視点を確固たるものにし、僕を独立した人間にさせた。それは、経済的な貧困の中で育ったことで、常に自分を守ろうとしてきたことに部分的に繋がるけど、大部分は、子供の頃の経験と家族の感情的障害から生まれたものだと気づいたんだ。こんなふうに独立するのは、恵みであり呪いでもある。一人でいることが心地良くて、沈黙は全く怖くないし、自分の感情と距離を置くエキスパートになる。でも、深い目的の感覚を探していて、自分のものにできる場所も探しているんだ。コミットするのは難しくて、いつも他人と距離を置いているように見える。まるで、他人が絶対に触れられない層があるかのように。その瞬間に完全に浸ることなく、その瞬間を最大限に生きているんだ。こういう破壊的な感覚をよく歌詞や音楽で表現していて、きっとそれは数少ない、というか、自分が完全に絡むことのできる唯一の場所なんだ。たとえ、知識としてその感情がどんなものかを理解し、味わうよりも、そのまま”自分の気持ちになる”ことが、僕にとって終わらないチャレンジだとしても、本当の解放に小さな勝利なんてのはない。芸術は、人生のように、人が降伏するようにデザインされている。そしてその報いは、もしも誠実さを越えたものがあるのなら、そこにはいつだって広がり、進化し、何度も何度も何度も変わることができると知ること。ある意味で、まさにそれが僕に起きてるんだ。

だからこそ、子供の頃に憧れていた叔父さんが、4年前に亡くなっていて、行政も誰も親族である僕に告げずにいたことに、言葉を失うほどショックを受けた。この悲しみを思い切り感じたいという気持ちと、この家族の悲劇をちゃんとした方法で管理したいという思いが交差する。”人生”は、いつだって不可能な状況に対処する方法が限られすぎているように感じるよ。もし僕が別の状況にいたら – 今みたいにニューアルバムに集中して取り組んでいるのは、表現し難い苦しみから出てくる深い感情を一人で経験するのにあまり役立つとは考えていないから – また、痕跡を残さずに消えてしまったように見える愛する人を見つけるために必要な情報を追いかけて暗い道を歩くことも、あまり好ましいことではない。僕にとって、一つ馴染み深いのは、自分の感情を抑えてすぐにいつものように振舞うまでに、そう時間がかからなかったこと…それって悲しくないかい?!実際、心と深く離れている感じがしたよ。

もし、お互いの距離が近かったら、今の僕を父さんはどう思うだろうか、とよく考えるんだ。今も生きていたとしたら、何を話しただろうか?叔父の死を知ったときに、こういう問いがまた浮上してきた。僕は別れや偽りには興味がない。そうであったことはないけど、心臓手術のあと、死の底から目覚めて、僕の精神が変わったんだ。それを感じる。だから、母さんが「叔父さんが亡くなったってことは、あなたが本当に血筋の中の最後の一人ね」と言ったとき、僕の中で困惑する気持ちが芽生えた。僕の心と魂を孤独感への深い目覚めが襲ったんだ。空虚感ではなく、もっとこう、たった一人なんだって気づいた瞬間、一人で死ぬことへの恐怖とかそういうんじゃなくて…ただ孤独を。そして、孤独とともに内省が訪れる。過去に選んだ様々な道を思い返したり、自分を今この場へと導いた決断など。自分に与えられた機会を最高の形で掴んできただろうか?自分が望んだだけ遠くまで来れただろうか?命を与えたいものを作れただろうか?人を愛したことはあるだろうか?本当の意味で?人によっては、こういう尋問が憂鬱な気持ちを映し出すんだろうね。けど、僕の場合は違うんだ。ただ自分の人生について考えているだけ。僕にとっては、まるで映画を見てるみたいな感じなんだ。「あぁ、ワオ!」とか、笑いとか、涙とか、憤慨とか、驚きとかがが詰まっているもの。僕は今日何をしたいだろうか?自分の映画に加えたい大事なシーンとなるようなことは何だろう?特に、昨年の2月3日に信号の青色のサインをもらったから、ワクワクしてるんだ。

肉体的な血筋は、たくさんの社会やコミュニティにとって今も神聖な恵だろう。僕は、愛を信じ、子供を育てる能力を信じ、彼らを容赦ない世界に直面できるようにするだけでなく、いつか何かを変える機会があると教えられると信じている人たちを称賛する。希望はこの世で最も美しいもので、信仰は人と分かち合うのに最も力強い贈り物だ。僕にとっては、その全てが僕の創るアートに、君に送るレターに、僕が書くジャーナルや日記に息づいているんだと思う…僕の血筋を精神的なものにしているんだ。君と分かち合っているものに。少なくとも、僕はそうやって考えている。未来にどんなことが待ち受けて、最終的にどんな決断をするとしても、僕らは時間には逆らえないし、残りの日数どれだけ残っているのかも分からない。けど、自分のもとに訪れる驚きや不思議を味わうことはできるはずさ。そして、自分の人生には何もないと感じるなら、自分の不思議を自分で作れるという力と共に慰めはくる…

自分という存在の自己制限の無数の壁を突破するための積極的な気質と共に、この日を思い描いているよ。アルバムが僕らにどんなものを明らかにしてくれるかを探るために、残りの時間をThe Long Shadowsと一緒に過ごすから、とてもエキサイティングだ…
メモ:

魔法といえば、昨日は聖パトリックの日だった。僕の父がよく話していたファミリーストーリーを思い出したよ。ご先祖さんがアイルランドに住んでいた頃のことをね。父はいつかアイルランドに行くのを夢見ていたんだ。けど、そのチャンスが訪れる前に逝ってしまった。夢想家や芸術家にとって人生はあまりにも短すぎる。僕の父はその両方だったのさ。僕の最も深い後悔のいくつかは、最も”栄光的な”達成だと他の人が思うものよりも、長く破壊的だったりする。もしも、個人的な旅が広がる中で、後悔が免れないものなら、時間の制限を超えて”人生”が与えてくれるものを探究し続けることは、どれだけ大事なんだろうか?”目に見えない”ものの領域は、自分の夢へのインスピレーションを見つける場所であるだけでなく、自分の夢を作っているものの進化し続ける流れに自分がなれる場所なんだ…受け継がれていく精神さ!!!