"お帰りなさい、クレイジーな神父"

僕はバンドと一緒にスタジオにいた。クリエイティブな状況において、お互いにコミットするとき、その時に取り組む楽曲のために”目に見えない”特別な要素を探り、自分たちの精神をリンクするために外の世界から完全に離れるようにしているんだ。それは僕らみんながリスペクトしなきゃいけない必要なスタンスだよ。特にJeff、Miss Isabelと僕は、様々な事業に関わっているだけでなく、ほとんどその全ての中心的な役割をしているから。タンジェのホテルのコーディネートから、最近オープンしたばかりのレコードプレス工場の管理まで。僕らの意識が、浸ろうとしている”精神”から、簡単に逸れてしまう理由が分かるよね。同じ部屋に6人いながら、1つになって精神を合わせることだけでも簡単じゃないのに。みんなそれぞれノイジーな楽器を手に持ちながら、それが、なかなか掴むことのできない’永遠’を感じるような欠片となれるって本気で信じているんだ。純粋で脆弱なまま。それを、間違うなんてありえないだろう?!

最初にMikkoが僕らに加わったとき、それがとても挑戦的だったんだ。自分がなりたいと強く願う無意識の感覚を識別するプロセスにおいて「速く」進むことはできない。クールでおしゃれな音のパターンを組み立てることはどんなミュージシャンにとっても「簡単」だけど、精神的な芸術性の高い作品に命を吹き込むことは一生の献身を要するかもしれないんだ。だからレナード・コーエンでさえ、自分を再定義するために5年〜6年もの間、寺院で過ごす必要を感じたのさ。僕らは、そうするための別の方法を持っている。信仰があるかどうかに関係なく、みんな誰でも心の中に「神聖な」ものや「聖なる」ものを持っていると思う。家族であったり、キャリア、お金、権力、思いやり、またはその役割に合った「神」であったり。僕の一つは芸術であり、限りある肉体と”永遠”という概念において心の領域が成長すればするほど、どれだけの時間、愛、友人、感情、”言葉”などを、手で触れられるような絶対的な祭壇で、犠牲にしてきたんだろうか、ということに気づく。
“命”は不完全で、ありそうにない色の集まり、”偶然”の音、不確かさの支離滅裂な層の中に存在すると信じている。自分の色眼鏡で見る眺めを”非合理化”するのは、ほぼ不可能だ。そのミックスに裏付け的な”経験”を加えると、”真実”として定義されてきたものに脳が逆らうことはないだろう。人間は皆、独断的な本質を持っていて、そんな”絶対的なもの”を避けて何かを生み出すには、闘い、反抗し、個人的な”構築”の論理的な延長に対して立ち上がる必要がある。だからこそ、残りのバンドメンバーたちは、クリエイティブプロセスで、正直さを出すために、魂を軽蔑する必要も、頭から血を流す必要も、心を傷つける必要もないと言い続けているんだ。でも、痛みや苦しみとは関係なくて、自分が繋がっていた教義や経験から自由になることについてなんだ…そして、それはたくさんあるんだよ。

スタジオ日記のエントリーを通して、これまでよく逃れられない”概念”について話してきたけれど、別に他に話すことがないからじゃなくて(話のネタが尽きるなんてことは僕に限ってないって知ってるよね)アルバムの作詞、プロダクション、レコーディングをリアルタイムで経験しているからなんだ。それがどうなっているか、自分がどう感じているかを率直に話すことに抵抗はない。関わる人たちをリスペクトしつつ、自分の”ブランド”のためや、読者に自分がどれだけすごいかを見せようと視点を操作するために、綺麗事だけを並べて書いているわけではない。僕は君と何ら変わらないんだ。ありのままの自分を見られるのが怖いし、無能だと思われるのが怖いし、無関係や意味がないと思われることを恐れている。そういう恐れから自分を解放するベストな方法は、正直になることなんだ。それが結局は間違っていたり、一時的だったとしても。今日という日は自分がどう感じるかでできている。感情は現実に関して不正確であるけれど、それでも、そう感じたことは事実だ。少なくとも、今日はね。
興味深いことに、僕はまさにそれについて、Sonic Youthのリー・ラナルドと分かち合ったんだ。創作における無意識の部分がもつ終わりのないスペクトラムと限りのないバリアについて。プロダクションプロセスは、僕らの魂をエンジンとする車のようなもの。石油や電気は、僕らの心にある情熱で、必要な駆動力は、開かれた道を進まなければいけないという決意。予め目的地を決めておく必要があるなら、公共のバスか、その場所へ何度も行ったことある人の車に乗せてもらえば良い。それが機能する場合、共感できる場合、経済的で管理されている場合、そのどれにも創造性はない。そこに発見も、驚きも、居心地の悪い環境も、励みになるインスピレーションもない…ワクワクする理由がないんだ。出発したときと全く同じ自分のまま、目的地に到着するだろう。唯一、残るのは既に知ってることや、安全なことへの膨らむニーズのみ。合理性に落ち着き、合理的に行動し、感情的な安易さと目的を持った受動性に飼い慣らされるように、自分の存在をプログラムしている。それって酷い状態じゃないかい?そこに到着し、だからこそ自らの無の創造の”完全”な製品になる。幸いなことに、それは取り消し不能ではない。退屈な繰り返しの人生に陥る人はいない。僕らは感情的に乾いていて空虚だと感じるかもしれないけど、輝きのない、夢のない日々に甘んじる運命にあるわけではないと思う。リーと僕が同意したように、僕らは絶えず制作中の芸術作品。最も鮮やかな詳細の一部は、定義するのにさらに時間がかかるんだ。

だから、最初のライティング、プロダクション、レコーディングの期間で取り組んだある曲のプロダクションセッションを再度開いたとき、僕はそれを聴いて、聴いて、何度も聴いて、自問した。「これは誰だ?」「これは何だ?」「何でこんなにも標準化されているんだろう?」責めるべき人間はどこにもいないし、印を見逃したとき、罪悪感のパーティーを求める気もない。でも、この曲を聴きながら、僕は印を見逃さなかった。感情は揺さぶられなかったし、その世界観に入っていこうという気にもならなかった。音自体はとても良いんだよ。ただ、他にもたくさんある魂のない曲と同じように、全てが完璧なものに包まれていて、”成功”へのレシピに何度も使われたのと同じモノのように感じた。ラジオで流す準備万端のような、シングルとしてリリースしたあと誰も覚えていないような曲を聴いて、僕は自分自身に腹が立った。何か気に入らないことがあると隠せない人間だから、Benは僕の方を向いて言ったんだ:「これが全く君らしいものじゃないってなるまで、どれくらいかかるだろうかって思ってたんだ」それに対して僕は:「これが僕じゃないのは分かってたけど、自分が何なのか、自分に残っているものが何なのかが、僕にとって深く悩ましい概念だから、この曲が”これだ”って思うものか、そうでないかは、聴いたあと、すぐに分かるだろうと思ったんだ」みんなが僕を見つめながら、Jeffはこう付け加えた:「この曲をアルバムに入れることはなかっただろうよ。万が一、入れてたとしても、ライブで演奏することはなかっただろうし、いつだって嫌ったと思う。そうだろう?」そこへMooseがさっと入って:「その曲を入れなかったとしても、大したことではないよ、ブラザー。未来にBサイドに入れるとか何でもできるし」この言葉、Bサイドが、僕に火をつけた:「Bサイドって、この先のデラックスバージョンとか未発表曲を集めたプロジェクトとかで、僕のファンやファミリーたちが掘り下げるように聴かせるゴミみたいな曲ってこと?そんなのはゴメンだね。それは絶対にない。以上」そして、付け加えて:「Ben、この曲のデモバージョンを開けてくれる?自分がどこで見失ったのか、そもそも何でこの曲に取り組みたかったのか知りたい」そしたら、みんな立ち上がって拍手し始めた。僕は:「何事?」って感じだった。すると「お帰りなさい、ALEX HENRY FOSTER!」とみんなが喜んでいるんだ。え、何?!Benは叫んだ:「クレイジーな神父が帰ってきた!!!」え、待って…?!何?!誰?!僕らはみんな大笑いしたよ…

Benが曲のオリジナルデモを開いて、それをみんなで聴いたんだ。一度聴いて、コメントも言葉も交わさないまま、お互いを見合った。それぞれの楽器を手にして、本物で、熱くて、純粋な感情の浄化として聴こえたものを、すぐに掘り下げ始めた。僕らは掘り下げて、飛び込んだ。やがて夜になり、再び聴いてみたんだ。Jeffは「これだ!これが”君”だよ。これが”僕ら”だ。これが僕らの”プロセス”だ」と言った。Benはニッコリ笑って、「これがアルバム制作ってもんじゃないか?」と言ったから、僕は「そうさ!!!」と元気いっぱいに答えたよ。そして、Mooseは「さっき僕が言ったように、Bサイドなんかクソくらえだ!」と言って、みんなで笑った。

それが何であろうと、自分の心と魂にはっきりとしたヴィジョンを持てたのは、最高に良く、またそれらの充実した感覚の背後にある理由を理解したいという僕のいつもの欲求をはるかに超えていた。ほらね、結局僕はそこまでクレイジーじゃないのさ…そうだろう?!? 😉

”クレイジーな神父”のストーリー

ちょっとここで一旦立ち止まって、このクレイジーな神父の意味を説明する必要があるよね?!この「呼び名」は、2021年に僕らがヨーロッパツアーしていたときに掲載されたレビューに由来していて、ジャーナリストが僕のMoogを説教壇と関連付け、僕の黒いシャツのボタンが全てしっかりと留められている姿を話していたんだ。そして、僕が自分の音楽に完全に没頭している姿から、僕がトランス状態にいるか(もしかしてそうなのかな!?)、あるいは憑依されているように見えたらしい(それはないね。まあ、僕が知っているわけではないけど)。彼らは、僕がまるで合唱団の指揮者のようにバンドを指揮し、マイクから遠く離れたところで一人で歌っていたから、ステージの袖にいる誰かか何かに向かって叫んでいるように見えたと書いていた。そして、僕の眼鏡が完全に曇っていることについても話していたよ…そういう記事が延々と続いたんだ。それらは実際、素晴らしいレビューだったけど、バンドメンバーはその説明に注目して、リハーサルで僕が手を離したり、芸術について熱を込めて僕が話し始めると、「さぁ、出た!クレイジーな神父!」と叫ぶようになったのさ。腹立たしいほど面白いよ。これからは明るくてカラフルなアロハシャツを着るべきかもしれない…なんてね。僕はきっと「休暇中のクレイジー神父」または「カラフルなクレイジー神父」って呼ばれるだろうよ。とにかく、僕はボタンを留めた黒いシャツを着続けようと思う。